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〈異なるもの〉に触れるとき…
 2008年10月のクロード・レヴィ=ストロースの死の報に、この比類なき人類学者がちょうど一世紀を生きたことの象徴性を思った。私たちはみなレヴィ=ストロースの子供なのだ、たとえば『野生の思考』を通じて、進歩史観から解き放たれ、探求された野生の豊かさを、もはやなかったことにはできないという意味で。人類学の方法論を刷新し、構造主義の祖として現代思想を牽引した、その人生に通底する明晰な論理とモラルが、『闘うレヴィ=ストロース』(渡辺公三著、平凡社新書)には示されている。

 離れたものを見る冷静な眼差しと、異なるものとの親密な接触  小さな猿を肩にのせた若きレヴィ=ストロースの写真に、著者は、独自の流儀の顕れを見てとる。数々の透徹した著作をものした驚くべき速度と集中力の持続、それは大恐慌を挟む二つの世界大戦、戦後復興、植民地独立から社会主義と冷戦体制の崩壊、そして現在にいたる困難な時代と重なり合う。その思考の出発点、人類学者としての探求以前の若き時代の、学生活動家としての活動に著者は光をあてる。ベルギー労働党の友人の指南のもとマルクスを読み、18歳でフランス革命の活動家グラックス・バブーフを論じ、20代には学問のかたわら社会党の機関誌『社会主義学生』に書評や時評を寄稿、暴力革命の称揚とは一線を画した人間・芸術の擁護をラディカルに唱えていたという。そして『アデン・アラビア』の書評(1931)で、自然と人間主義の統合を称賛し、「(著者)ニザンの経験の価値は、アデンから帰還したことではなく、そこに行ったことにある」と書き、それに呼応するように数年後ブラジルへと向い、人類学者としての模索がはじまる。

 1939年に野の花を見て得た直観は、言語学者ヤコブソンの音韻論をモデルとして、自然と文化の分節を読み解く構造理論に結実する。『悲しき熱帯』(55)に描かれたブラジルでの日々に始まり、親族構造の交換様態を分析した『親族の基本構造』(49)から、南北アメリカ先住民の神話研究に基づき感覚と理性の結合を探る『神話論理』(64-71)へ、その思索は繰り返し若き日の問いかけと音韻論に立ち戻りながら、大きなループを描く。

 野生の思考とは「彼らの位置に自分を置こうとする私と、私によって私の位置に置かれた彼らとの出会いの場であり、理解しようとする努力の結果」であり、「正しい人間主義は、自分自身からはじめるのではなく、人間の前にまず生命を、生命の前には世界を優先し、自己を愛する以前にまず他の存在に敬意を払う必要がある」。このような〈異なるもの〉への謙虚で節度ある熱中のありようから生まれた、豊かで尽きせぬ思考の軌跡が今もわたしたちの前にひらかれていることを、この書は教えてくれる。

NN

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闘うレヴィ=ストロース (平凡社新書)



デカルトさんとパスカルくん
 このふたりは「知のデカルトVS信のパスカル」などと、17世紀フランス哲学を代表してよく対比される。じっさい30歳年上のデカルトは、天才少年として名を馳せていたパルカルをたずねている。1647年9月のことである。パスカルにまつわる新書は数多く、またある意味研究尽くされているともいえるが(本国以外では日本人研究者がもっとも多いらしい)、ここでとりあげるのは「フランスの哲学者仲間の鼻つまみ者、それがパスカルだ」という文章で始まる、パスカル研究者でないJ.ブランの『パスカルの哲学』(竹田篤司訳、文庫クセジュ)である。

パスカルには、死の直後に姉ジルベルトが残した手記などによって、その生涯はかなり詳しく追うことができる。母親が早死にしたとはいえ、裕福な家庭に育ったパスカルは、教育熱心な父親から教育を受け、子供の頃から数学をはじめとして天分をしめし、16歳で『円錐曲線論』を書いたり、ノルマンディーの徴税官になった父親のために、計算機を考案したりする一方、その頃から、ひどい頭痛など一生病苦を抱え込んでしまう。その後もトリチェッリの大気圧の実験を追試したり、当時存在しないとされていた真空に関する新実験をしたり、高度にともなう大気圧中の水銀の高さを測る実験も提案している。圧力をしめす国際単位は「パスカル」だし、「ほかの」教科書に「パスカルの定理」や「パスカルの原理」がでてきて、面食らった方も多いだろう。

父の死、妹の修道院への帰依などによって、パスカルは社交界に出入りする時期もあったが、晩年にはモンテーニュとデカルトを読むことが思索の源となった。やがて前者の懐疑主義にも、後者の合理主義にもひとを導くことはできないと、キリスト教の旧宗派であるジャンセニスムの教えに関心を示していたことから、キリストの「福音」を求めた。イエズス会との対立のなかで、書簡形式の『プロヴァンシアル』は、そのすぐれた文体によって社会的反響をもたらした。会が運営するポール・ロワイヤル修道院の「小さな学校」のための教科書を書いて、理性にもとづいた幾何学的精神の重要性を認めるとともに、信仰へ結びつく「繊細の精神」として精神の寛さも同時に必要であるとした。

「人間は考える葦である」という有名なことばの書かれている『パンセ』は、「断想」とも訳されているとおり、『キリスト教弁証論』という著書のためのばらばらになったメモ書きであり、それをまとめる前にパスカルは亡くなってしまった。デカルトとの対比を中心に歴史の流れにそったパスカルの全体像をくまなく網羅しながらも、それらの羅列にとどまらない本書は、訳者が最後に書いているように、無数にあるパスカルに関する書籍のなかでも、パスカルファンとアンチパスカルのどちらが読んでも納得のいく内容であろう。

*現代演劇作家J-C.ブリスビルの翻訳書のタイトルを借用した。訳者の竹田篤司・石井忠厚両氏に感謝します。

MM
〈コロンブスを発見した〉ひとびと
 発見=今まで知られていない物事を初めて見いだすこと。1492年、コロンブスはいかにして何万年も前から人の暮らす地を「発見」できたのか、私にはわからない。その後の先住民の苦難の道、激烈な土地・文化・生命の収奪は、今では歴史に(少しは)記述され、西部劇の野蛮なインディアン像も塗り替えられた。大地と調和して生きる彼らの文化に憧れる人も少なくない。が、それを辛くも伝えてきた背景にある、今も続く困難な状況を見ないなら、それもまた文化的収奪でしかない。現在の現実の彼らはどこでどう生きているのか。鎌田遵著『ネイティブ・アメリカン  先住民社会の現在』(岩波新書1172)は、それを伝えるために書かれた一冊である。

 1492年当時の部族数は数百から千以上、ある推計によると人口700万人、1900年に25万人、減少率97%! 2000年の国勢調査では247万人(総人口の0.9%)。合衆国独立後は、政府による部族との条約締結とその不履行、先住民討伐戦争の末、1890年、彼らの土地は完全に奪われた。現在、先住民が暮らす300以上の居留地の面積は全土の3%未満。居留地には司法・立法・行政を統括する部族政府がおかれ、法的には「国内の従属国家」だが、様々な制限を受け自治権は限定的である。旧来の生活圏にある居留地は殆どなく、居留地のない部族、部族と認定されない部族もある。部族員の認定も、混血や都市居住の増加により、法と帰属意識の矛盾を孕んでいる。

 1890年以降、個人への土地割当てと同化政策が、共同体と伝統文化をさらに破壊。1934年のインディアン再組織法は、自治政府設立と部族憲法制定を促し、自治への希望をもたらした。しかし1945年のインディアン終結政策は、自立促進を名目とする援助打ち切りと部族社会の解体で、転住した都市先住民の貧困・差別など新たな問題が発生した。60年代には、文化的アイデンティティの回復と民族自決を目指す運動が生まれ、非先住民とも連帯しながら、さまざまな直接行動は現在も続いている。しかし、差別、貧困、失業、アルコール依存、病気、犯罪などの問題は依然として大きい。最近では、居留地におけるウランなどの資源開発、部族政府によるカジノ経営など、経済力強化と環境破壊の両刃の側面も浮上している。

 他民族社会がサラダボウルなら、先住民は〈かき混ぜるたびに傷つきすり減るボウルの底面〉と著者は言い、「コロンブスを発見してやった」と皮肉で寛大なジョークを飛ばす、その地のホスト=先住民に、ゲスト=アメリカ人が敬意をはらい、できれば少しは家賃を支払ってほしい、という彼らの控え目な願いを最後に伝える。受け取ったものを次に引き渡して、行為は文化となる。それは伝言ゲームのように造作なく、そして難しい。
NN

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ネイティブ・アメリカン―先住民社会の現在 (岩波新書)




〈ユダヤ人でないこと〉の眩暈
例えば「フランス人」、それから「ユダヤ人」と口にしてみる。思念の粟
立ちが明らかに異なる。西暦と同じ長きに渡って、ユダヤなるものが火種
であったヨーロッパではいかばかりかと想像する。キリスト教世界、近代、
そして今もまさに、宗教・政治…のさまざまな局面で、デリケートにして
困難な〈ユダヤ人〉問題めがけて、『私家版・ユダヤ文化論』(内田樹著、
文春新書519)
は跳 躍する。ユダヤ人思想家、タルムード学者のE.レヴィ
ナスを師とする著者は、中立的なユダヤ人研究書ではないと断りつつ、
〈否定〉に媒介されて存在してきたユダヤ人を語る言葉は、「他者」を、
ひいては自分自身を語ってしまうのだ、と自らの立ち位置を述べる。

ユダヤ人とは誰か(誰でないのか)を説き、近代フランスの反ユダヤ主義、
日猶同祖論、ユダヤ人陰謀史観など、反ユダヤ主義の系譜を丁寧にたどり
ながらも、著者は注意深く後じさり核心を迂回する。それゆえこの本をめ
ぐる語りもまた容易でなく、要約を迂回するよりほかなくなる。

白眉は、レヴィナス経由のユダヤ教理解である。ユダヤ人の聖史的宿命と
は「諸国民に先んじてより以上に受難すること」。神に選ばれたことは救
いの優先権ではなく、有責性を意味し、かれらは「私自身に対して他の人
々に対するよりもはるかに多くを要求する」。その神との関係においては、
罪深い行為ゆえの有責意識という因果律は否定される。罰への恐怖心は、
人間の善性を培わない。人間の善性と責任を基礎づけるためにユダヤ人は、
アナクロニズム(時間錯誤)的な時間意識に基づき、「かつて神=隣人を
追い払った」という「いまだ到来せず一度として現在になったことのない
出来事」を、偽りの起源的事実として引き受けた。ユダヤの神は、全責任
を一身に引受けるような人間の全き成熟を求めるがゆえ、救いのための顕
現を断念し、神の不在こそが神の偏在を証明する、ことになる。

著者は、多様な知的領域でのユダヤ人の突出ぶり、サルトルの『ユダヤ
人』、フロイトの強迫自責と宗教の起源の論考を反転させつつ論じ、有責
性と始原の遅れというユダヤ教概念を末尾に置く。かつて「これから存在
させねばならぬものを基礎づけるために、未だ存在したことのないものを
時間的に遡行して想像的な起点に措定」した集団がいて、その思考形式は
他の人々には「知性的」と映り、キリスト教に先立つ(呪われた)その信
仰・知性・過ぎ越す仕草への無意識下の強い欲望が、幻想の境位で憎悪と
して結像した。このアナクロニックな反ユダヤ主義の理路を、非ユダヤ的
に遡行して示された、この人々のありように、私は眩暈がしてしまう。そ
れは、ユダヤ的なものとの遭遇につきまとう眩惑の追体験、なのだろう。
NN

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私家版・ユダヤ文化論/内田樹 著(文春新書519)







「非・自由」の選択
ここ日本では、リベラル(=自由)というと、どちらかといえばよいイメー
ジがある。しかし、最大保守党は「自由」民主党、革新政党もリベラルを
標榜し、リベラリズム(ネオがつくと尚更)はグローバリズムの母胎で…と、
いつも混乱してしまう。薬師院仁志著『日本とフランス、二つの民主主義』
(光文社新書265)は、日本とフランス、アメリカを比較しながら、その混
乱を整理し、日本の政治的選択肢の問題をクリアに示してくれる。

まず憲法の比較。日本は「われらとわれらの子孫のために…自由のもたら
す恵沢を確保する」ことを目指し、そのお手本であるアメリカも同様に自
由を指向、一方フランスは「全ての市民に対して法の下での平等」を指向
する。この自由と平等に対する考え方の違いは、社会のあり方にも大きな
差異をもたらす。ソ連崩壊後、社会主義は消滅したとの論調も聞かれたが、
ヨーロッパをはじめとする多くの国で、平等をうたう社会民主主義政党は
確実に議席を確保し、その役割を果たしているという。

その違いを歴史的に見ると、民衆革命によって築かれた共和国フランスは、
絶対王政の中央集権制を継承しつつ、階級も宗教色も排して、全ての国民
を平等な存在と位置づけた。そこから平等を守る《大きな政府》が生まれ、
国民もそのための負担や自由の制約を肯んずる。一方、平等と人権は造物
主からの付与物(独立宣言)とする人権神授国家アメリカは、国家には平
等を保証する義務も権利もないゆえ《小さな政府》となり、格差は自己責
任、力のあるロビィ団体が政治を動かす。そして日本は、近代国家建設の
ための王政復古という明治維新の矛盾、あらゆる政党が弾圧された戦時体
制を経て、左派政党もなぜか小さな政府・(自由経済の恩恵にすぎない)
福祉の無料化・住民参加(=単純な官から民へ)を掲げ、逆に保守派の政権
党は、大きな政府の公共事業により偏向した利益配分を助長してきた。二
大政党を自認する野党も、大同小異の政策しか提示しない。かくて私たち
には今も、平等か/自由かという政治的選択肢がないのである。

それは政策的な路線選択の問題ではなく、各個人の望みや生き方の問題だ
と著者はいう。もちろんフランス社会にも問題はあろう。が、誰もがソリ
ダリテ=連帯を口にし、例えばスト=労働者の権利=自分の問題として支持
し不便を受け入れ、「金銭の有無が知識を会得するための障害となっては
ならない」から学費を原則無償とする社会がそこにはある。翻って、自分
の自由を守るため他者の不自由には目をつぶる社会とは異なる、みんな∋
自分のための「非・自由」を受容する社会、そういう選択肢があると知る
ことからはじめなければならない、この国の成熟への道は前途遼遠…。

NN

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日本とフランス、二つの民主主義/薬師院仁志著(光文社新書265)