音楽をもっと身近なものにするために、ヴァイオリンを中心にさまざまな楽器編成で、演奏機会の少ない現代・近代の作品を取り上げて、室内楽コンサートを行っています。初めて聴く音楽に耳を澄ます楽しみを味わってください。
カルチエミュジコ最新コンセール情報
カルチエミュジコ ヴァイオリン&ハープ デュオコンセール
QUARTIERS MUSICAUX VIOLON & HARPE DUO CONCERT


ヴァイオリン 富山 ゆりえ
Yurie TOMIYAMA violoniste

ハープ 山崎 祐介
Yusuke YAMAZAKI harpiste


■ソナタ |G.ドニゼッティ
□Sonata|Gaetano DONIZETTI
(1797-1848)

■マンドリン(Hp.solo)|E.パリシュ=アルヴァース
□La Mandoline-Grande Fantaisie|Elias PARISH-ALVARS
(1808-1849)

■ソナタコンチェルタンテ二長調 作品114|L.シュポア
□Sonate Concertante Op.114 |Louis SPOHR
(1784-1859)

■木霊 I (Vl.solo)|吉田 進
□KODAMA I(Esprit de l'Arbre I ) |Susumu YOSHIDA
(ne en 1947)

■小組曲 作品12 |H.ビュッセール
□Petite Suite Op.12 |Henri BUSSER (1872-1973)

■幻想曲作品124|C.C.サン=サーンス
□Fantaisie Op.124|Charles Camille SAINT-SAENS
(1835-1921)

2007年1月20日(土) 19:00開演
18h00~18h50 公開舞台稽古(入退場自由未就学児歓迎)
19:00 Samedi 20 janvier 2007


大泉学園ゆめりあホール
Yumeria, Oizumigakuen
Ligne Seibu-Ikebukuro
西武池袋線大泉学園北口駅前

入場料(自由席)
一  般 2000円
小中高生 1000円
未就学児 100円
カルネ 6000円(4枚綴)

予約・問合せ 
カルチエミュジコ
entracte@m.email.ne.jp
TEL03.34.15.89.16.
FAX03.34.15.89.17.

テーマ:クラシック - ジャンル:音楽

吉田進

吉田 進Yoshida Susumu(作曲家)
<公式サイト>
1947年生まれ
 

1972年にパリにわたり、パリ国立音楽院作曲科でオリヴィエ・メ
シアンに師事(一等賞)して以降、フランスに滞在している。その間、
『演歌』『空蝉』『縄文』など、西洋音楽に対して独自のアイデン
ティティをもった作品を書き続けている。この『木霊I 』も西洋音
楽のヴァイオリン奏法とは異なる響きと構成をもった異色作である。
ピッツィカート奏法の「点」とアルコ奏法の「線」が、やがて混じ
り合うように絡み合って、全体の流れが進行していく。
1977年に七島晶子により初演されている。

『木霊I 』作曲家による序文
息のつまるような現代社会の中で、音楽を通して自然と交感したい
と願い、木で出来た楽器~ヴァイオリン~のために作曲しました。
僕の他の作品と同様、「音楽とは音ではなく沈黙である」という考
え方に基づいています。深い沈黙を通じて、自然が僕たちに何かを
語りかけてくれることを祈っています。

■作品
『カナカナ』
『色は匂へど』
『木霊I 』『木霊II』『木霊III
『演歌I 』『演歌II』『演歌III』『演歌IV
『空蝉』
『縄文』
『時の響き』
『楽』
『クヮルテッティーノ』
『ファンタジア』
『リズム・マニア』
『神巫』
『自然と永遠について』
<楽譜リスト(en Francais)>


■著書
『ラ・マルセイエーズ物語』(中公新書)
『パリからの演歌熱愛書簡』(1995年、TBSブリタニカ)
『フリーメイソンと大音楽家たち』(2006年国書刊行会)
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■訳書
『ドビュッシー・ピアノ作品全集』(ヤマハミュージックメディア)

■記事
ARTLET19「音霊(おとだま)を喚起する者として」

■講演
朝日カルチュアセンター新宿(2006年12月2日)
<『フリーメイソンとモーツァルト』

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■CD
Yazaki&Tokyo City Philharmonic Orchestra Live in Paris
 →Amazonで見る


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■著書内容
『フリーメイソンと大音楽家たち』(国書刊行会)

モーツァルト、ハイドン、リスト、シベリウス、ルイ・アームスト
ロング、ベニー・グッドマン…彼ら偉大なる大音楽家たちがフリー
メイソンであった事実を明かし、バロック音楽から、ジャズ、シャ
ンソンにまでに至る、従来の西洋音楽史をメイソン思想の視点から
らとらえなおした、“音楽史の革命”ともいうべき衝撃の書。

序章フリーメイソンの基礎知識(フリーメイソンの起源)
第1章バロック音楽(ジェミニアーニとメイソン音楽協会)
第2章古典派(改革者グルック、ゲーテの詩による歌曲)
第3章ロマン派(「冬の旅」の象徴性;シューベルトの手本)
第4章現代(サティと薔薇十字団、「星条旗よ永遠なれ」)

モーツァルトやハイドンといった大音楽家たちがメイソンであった
事実を明かし、従来の音楽史をメイソン思想から捉え直した衝撃の
書。本書刊行にあわせ、本書の著者・吉田進監修による「フリーメ
イソン音楽」を集めた2枚組CDを東芝EMIより発売。
『フリーメイソンの音楽~フリーメイソンと大音楽家たち~』
 →Amazonで見る

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■著書内容
『パリからの演歌熱愛書簡』(1995年、TBSブリタニカ)

パリ在住23年。現代音楽の作曲家が、美空ひばりから森進一まで演
歌歌手25人の「魂をゆさぶる」歌唱力を徹底解剖。日本人が感情や
考えを日本語で表現できる演歌の世界の魅力を伝える。『サンデー
毎日』に連載されたもの。

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■著書レヴュ
KILLER MUSIC & Information House
http://www.ok-corp.co.jp/book.html


吉田進『パリからの演歌熱愛書簡』
(TBSブリタニカ・1600円・初版1995年)

◇著者はオリビア・メシアンの弟子で、フランス在住のシリアス・
ミュージック(現代音楽)の作曲家。自身の作品にも《演歌I II
III IV 》等があります。要するに現代音楽の作曲家でありながら、
同時に熱狂的な演歌ファンという人です。従って演歌作品のアナリ
ーゼなどを期待していると、肩すかしを食らうことになります。こ
こで分析され述べられている対象は、作品ではなくあくまでも「歌」
です。それも、それぞれの歌手に即して行われているため、ここで
展開されているのは演歌歌手論であると言うべきです。扱われてい
る歌手は、石川さゆり、森進一、八代亜紀、藤圭子、小林幸子、村
田英雄、美空ひばり、都はるみ、千昌夫、五木ひろし、島倉千代子、
前川清、二葉百合子、坂本冬美、ちあきなおみ、等々です。

◇小生があれこれ言うよりも、坂本冬美についての記述から少し引
用してみましょう。「坂本冬美は、本物であるばかりでなく、大物
である。…(中略)…坂本の用いる最も基本的な技術は裏声で、そ
れもごく短い音を裏へ返すか、あるいは小節を伴うのが特徴である。
これは小林幸子にも共通するテクニック…だが、二人の声の音色は
全然違うから、与える印象もまた異なる。…《男の情話》で格別に
美しい裏声は、三番の「強いばかりが、男じゃないと」の「男」の
「と」で途中から引っくり返るところ。感受性が鋭敏な時に聴けば、
一瞬永遠が聞えるだろう。」(P.88) こんな具合です。

◇はっきり言って、これだけ愛に溢れた演歌歌手論にはかつてお目
にかかったことがない。この本のおかげで坂本冬美に一発で「ぞっ
こん惚れ」してしまいました。小生に「永遠が聞え」たのは上の箇
所よりも、むしろ《祝い酒》一番の「浮世荒波、ヨイショと越える」
の「ヨイショ」のところです。ほかにも教えられるところは多々あ
りますが(多すぎるくらいです)、とりわけ、藤圭子論、小林幸子
論、島倉千代子論、二葉百合子論には泣かされます。

◇小生にとっては最高の演歌入門書でしたが、読んでからかなり時
間が経っていたため、少々熱のないレビューになってしまったかも
しれません。であるとしたら、皆様と著者にお詫びします。尚、上
に挙げた歌手以外に、さだまさし、山口百恵、沢田研二にもそれぞ
れ単独の章が割かれております。ご理解いただけるとは思いますが、
その部分はよく分かりませんでした(山口百恵はいずれきちんと聴
こうとは思っておりますが)。いずれにしても、これは全音楽ファ
ン必読の書。上に載せた藤子不二雄(A)氏装丁の表紙がまたなん
とも言えずビューティフルでエグイ。
【2002/05/18 BR子】

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■著書レヴュ
地歌・箏曲ホームページ
http://www.cablenet.ne.jp/~syokora/hon.html

吉田進『パリからの演歌熱愛書簡』
(TBSブリタニカ・1600円・初版1995年)

各人のキャッチコピーを読んでいるだけでもそそられますが、内容
は前川清の項ではこうなっています。

<噂の女>は現代の義太夫
今度は、前川芸術の白眉、作詞・山口陽子、作曲・猪俣公章の<噂
の女>を分析する。

女心の悲しさなんて
まずこの歌唱を特徴づけるのは、自由自在なリズムの変容である。
譜面に指定されたのと、大幅にズレている。

「女」の「な」は、少し早く出るし、「心」の「ご」は、ぐっと
延ばされ、楽譜での「の」の位置に来ても、まだやっている。
「悲しさ」の「さ」が歌われるのも、本来なら「て」の場所、といっ
た具合なのだ。

音程も精妙そのもので、「女」の三つの音にしても、譜面では同音の
反復に過ぎないのを、次のようにやる。
「お」は、下の方の不安定な高さの音から掬い上げて、指定より半音
下の音に達する。「ん」は、これと同じ音。「な」は、最初はやはり
半音下なのだが、直ぐに小節を利用して、半音上、つまり書かれた音
へ移行する。神業だぜ、こりゃ!

そして「心」の「ご」は、「な」と同音の音から上へグリッサンドで
のぼり、幅の広いヴィブラートをかける。
わずか数音節の個所に、こんなに手の込んだことをするのは、一体
なぜだろう。(以下省略)

思わず曲を聞きたくなりますよ。
(2001.01.08)

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■著書内容
ラ・マルセイエーズ物語
吉田進 著  中公新書

1792年4月、好戦気分の昂揚するストラスブールで、文人肌の工兵
大尉ルジェ・ド・リールの手によって《ライン軍のための軍歌》が
作られ、瞬く間に口伝えで広まった。テュイルリー宮殿攻撃で名を
馳せたマルセイユの義勇兵たちが歌い続けたことで《ラ・マルセイ
エーズ》と呼ばれるようになったこの歌は、紆余曲折の末、遂に国
歌と決定される。一夜にして生まれた歌が、どう伝播し、評価され、
制度化されていったのかを辿る。(251ページ)

第1章 《ラ・マルセイエーズ》の成立
第2章 作者ルジェ・ド・リール
第3章 《ラ・マルセイエーズ》の秘密
第4章 国歌への道
第5章 主題と変奏
第6章 《ラ・マルセイエーズ》の現在

主要参考文献
《ラ・マルセイエーズ》歌詞全訳
《ラ・マルセイエーズ》全曲楽譜

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■著書レヴュ
Hi-Low-Mix
http://www.tcp-ip.or.jp/~miyagawa/books/books.html

『ラ・マルセイエーズ物語』
吉田進著(中公新書)

フランス国歌「ラ・マルセイエーズ」にまつわる様々なエピソード
を集めた書。その成立の過程、複雑なフランス近現代史の中で揺れ
るその評価などが中心に描かれている。

個人的に面白かったのが当時の替え歌。「いざ祖国の子らよ、栄光
の日来たれり」が「さあ、バッカスの子らよ、飲む日は来たれり」
になっちゃうんだからゆかいだ。

また、セルジュ・ガンスブールのレゲェバージョン事件も興味深い。
国歌をレゲェにしちゃったガンスブールに、フランスの右翼は(ど
っかの右翼と同様に)脅しをかける。このためコンサートは中止と
なったが、一人ガンスブールは聴衆の前に立つ。右翼グループに向
き直り、彼は言う。

「俺は<ラ・マルセイエーズ>に、本来の意味を取り戻させたんだ
ぜ」

その時、ステージを青・白・赤のライトが照らす。拳を突き出し、
彼は本来の形の「ラ・マルセイエーズ」を歌う。会場全体が感動に
震え、右翼たちすら彼に声を合わせて歌ったという。

うーむ、「君が代」じゃあこうはいかんな(なお、私は右翼である)。

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■講演内容
朝日カルチュアセンター新宿(2006年12月2日)
フリーメイソンとモーツァルト

モーツァルトの生誕250周年が、日本でも盛大に祝われていますが、
フリーメイソンとモーツァルトの関係を正面切って扱った企画は、
見当たらないようです。

しかし、モーツァルトにとってフリーメイソンとは何だったのか、
を知らずに、作品を充分に理解することは出来ません。
モーツァルトはごく若い時分からメイソン的環境にあり、28歳で
フリーメイソンに入団しました。

フリーメイソンの儀式のために音楽をたくさん書いており、≪わ
れらが喜びを高らかに告げよK623≫はモーツァルトが完成した、
最後の作品となりました。この曲を自分で指揮して初演した三日
後に、モーツァルトは死の床に就いたのです。

また歌劇≪魔笛≫を初め、僕たちが知っている傑作の数々に、フ
リーメイソンの思想が反映していることは、少しずつ明らかにな
って来ています。

実際に作品を聴きつつ、長年「フリーメイソンと音楽」を研究し
て来た立場から、お話したいと思います。




ワキ的世界への旅
能楽を観たことのあるひとならば、どうせやるならワキより、シテ」
と思うだろう、と『ワキから見る能世界』(NHK出版生活人新書195)
の著者である能楽師の安田登もあとがきで書いている。それらの相
違は、たんなる配役によるもの、あるいは、ワキの経験を積んでか
ら、シテをやる、という程度にしか思われていないのだろう。しか
し、一度きめたら変えられない「役」として、20代なかば過ぎから
謡の稽古をはじめた著者は、分別をもってシテではなく、ワキを選
んだ。

その理由のひとつとして、ワキの代表的登場人物である、一所に定
住せず諸国を漂泊する旅の僧の存在に強く魅かれたからだと、それ
までの本人の旅において、日常生活では出会えないような遭遇が、
予期しなかった形で起こったことに触れる。

そして、ワキ(だけ)が、異界に紛れ込んで、思いを残してこの世を
去った亡霊であるシテに出会うことができるのはなぜか、というこ
とを著者は考えていく。不可視の存在であるシテを観客に分からせ、
この世でのシテの思いを晴らすのがワキの役目である。

かといって、ワキはどちらかというと、無力な存在であり、むしろ、
そのような役割を自覚していたのでは、それを果たせないのだとい
う。そのようななかで、芭蕉や漱石をはじめ、さまざまな人たちが、
ワキの旅をしていることに気づいたのである。

もちろん、そういった旅を誰しもができるわけではない。添乗員つ
き団体「ツアー」でも、忙しい日常生活から逃避する「トラヴェル」
でもだめなのだろう。目的地ではなく、そこへ到着するまでの過程
が大事なのだと著者も述べている。

旅先に何があるのかわかっているのなら、ましてや、いいものがあ
りますよという口車にのるのなら、わざわざ出かけてみることはな
い。そこにたどりつくまでに、何があるのかわからないから、わた
したちは、さまざまな日常のしがらみを断ち切って、自分自身の企
図でもって、あえて旅立つのであろう。

そのような旅において、能世界に見立てること、俳句を詠むこと、
そして読書することを著者はすすめている。そのためには十分な準
備が必要なのだろう。いうまでもなく、ここに書かれている「旅」
は「人生」に置き換えてもいいのだろう。ここでは、準備期間のな
い人生が、いかにして豊かな旅へと結びつくのか、についてのひと
つの方向が示されている。

MM

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ワキから見る能世界/安田登 著(NHK出版生活人新書195)




いちまんきろ-07
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レピュブリックの先で地上に出た、サン=マルタン運河には、有名
な鉄骨の太鼓橋がかかっている。映画もあまり見ないけれど、『北
ホテル』の舞台となってから有名らしい。そのホテルの建物も最近、
観光用に整備された。アメリが水切りをするのもサン・マルタンら
しい。

しかし、いくつかあるそれらの橋は、人が歩くには十分の広さがあ
るけれど、もちろん車が通れるわけではない。このあたりのサン=
マルタン運河の水面は、道路と同じレベルで、両側は格好の遊歩道
になっている。(人と水面を分離することしかあたまにないこの地
の考えには困ったものだ)

ところで、運河と交差している車の通行する道路は、運河を船が通
るときには、踏切が降りた上に、何とその2車線の道路が回転して
しまうのである。それには時間がかかるため、この道路は運転手た
ちに避けられているのかどうか、このあたりを車で通ったことはな
いので、よく知らないけれど、それなりの通行量はある。

一方、運河を通る船の方は、いくつかの水門を抜けながらウルク運
河とセーヌのレベルの差を解消していくので、こちらもゆったりと
したものだ。

両側の閘門にはさまれたドッグのなかに入ると、閘門が閉まり、そ
こに水が入ったり、抜かれたりしながら、手前のそれまでの水面レ
ベルよりも数メートルも上下してしまう。こんな機構をだれが、い
つごろ考えたのだろう。観光船が歩くよりも遅いといわれるゆえん
である。

ちなみに、ここの運河の幅は10メートルほどなので、(だから河岸
からアメリの真似をしてはいけないし、水面近くの橋へは近づけな
いはずだ)時間によって方向が反転する一方通行である。もはや、
ひとびとの交通手段として使われているわけではないのだろう。

しかし、パリのひとびとのゆったりとした生活のテンポを経験して
みるためには、(もちろん、誰しもが、いつも、そんなわけでもな
いのも事実だけれど)適切な手段なのかもしれない。こちらは船に
乗っているわけでもないのに、ドッグで上下する船を、閘門番の喜
び回っている犬と一緒に、飽きもせずに眺めていた。

ヴィレット門の近くに来ると、道路より水面が下がり、その頃、ペ
ニッシュが停泊していたあたりは、すこしひとびとのから分離して
いるように感じたものだ。