音楽をもっと身近なものにするために、ヴァイオリンを中心にさまざまな楽器編成で、演奏機会の少ない現代・近代の作品を取り上げて、室内楽コンサートを行っています。初めて聴く音楽に耳を澄ます楽しみを味わってください。
クセナキス『フネム・イデュヘイ』
Iannis Xenakis  イアニス・クセナキス

HUNEM-IDUHEY
pour violon et violoncelle

Edna MichellとYehudi Menuhinのために作曲され1996年8月にEdna
Michell(ヴァイオリン)とOle Akahoshi(チェロ)により、ニューヨー
クのリンカーンセンター芸術祭にて初演された。

 作曲者クセナキス(1922~2001)は、アテネ工科大学に在籍し、パリ
に出てはじめ建築家ル・コルビュジエのもとで建築技師として働いたとい
う経歴をもち、彼が作曲を学ぶにあたりその門を叩いたメシアンは彼に和
声や対位法を学ぶ事よりも自身が培ってきた能力を作曲に直接生かす道を
奨めたというエピソードも残されているように、その作品の多くは、確立
や群論といった数学理論に基づいて構築/作曲された抽象的な音/音群の
形象ともいえるもので、それは聴覚上の空間に築かれる創造的な建築物で
もある(この資質は、実際の空間における視覚/聴覚の統合的作品をも生
み出すこととなる)。

 このHUNEM-IDUHEYにおいても、そうした作曲理念の一端がうかがえ
る。楽譜の冒頭におよその演奏速度、そしてヴァイオリン、チェロともに
<ヴィブラートなしで>という演奏法の指示とフォルティッシモの強弱指
定がある他、一切の指示表記はなく、全18小節間終始一貫して、そのフォ
ルティッシモで奏される16分音符から全音符までのさまざまな音価(音の
長さ)の音が抽象的構造体・音空間を--リズムの生成により時間的水平軸
を、音高の布置により空間的垂直軸を、さらにそれらが対位法的に編まれ
た二つの楽器の錯綜により精巧さが極められて--構築する。その宇宙は、
この作曲家の他の多くの作品同様、虚飾を排した峻厳さきわまる抽象的世
界の極北ともいえるものであるが、その資質・思考は、若き日の祖国解放
のためのレジスタンス抗戦参戦のさなか、迫撃砲を受け顔面の一部を損傷
し左目を失明するという不幸な事故と深く結びつくようであり、その事故
が自身の感受性に及ぼしたものについてクセナキスは次のように回想して
いる。「感覚が半分に減ったので、あたかも井戸の中にいるかのように、
私はひとつの穴を通して世界をとらえなければならなかった。(略)私は、
感覚でとらえる以上に熟考することを余儀なくされた。こうして、私は、
はるかに抽象に傾いた概念に到達したのである。(ラルース世界音楽人名
事典からの引用)」<T.S.>


デュサパン『オイメ』
Pascal DUSAPIN
Ohime, duo n°1 pour violon et alto

<交じりあう>視線について
 この交じりあい(という表現はぴったりだ)は、ごく短期間、ふたつの
<運命>、ふたつのものの見方のあいだで、入れ替え、置き換え、移し替
え[=キアスマ]を実現する。その結果一種の同時相互規制が生じる。君
はわたしのイメージ、風貌を帯びてき、わたしは君の風貌を帯びる。君は
わたしではない、というのも君はわたしを見ているからだし、わたしは自
分が見えないから。わたしに欠けているのは、この、君が見ているわたし
だ。そして君の方に欠けているのは、わたしが見ている君だ。
 たとえわたしたちがまだ互いに深く知り合っていなくても、互いに映し
あえばあうほど、いっそう相手に似てくるだろう。そして残りの部分もす
べて同じになり、きっと…共有することになるだろう。
 そして互いの視線がバラバラになれば、その分互いの姿が見えなくなる
から、私たちはかえっていっそうお互い見分けがつかなくなるだろう。
 わたしが君を見るのは、君にならないためだ、わたしは「君」じゃない
から。

ポール・ヴァレリー『言わないでおいたこと』から
「キアスマ(交叉、移し替え)」東宏治訳

 人は「他者」との出会いにおいて、程度の差こそあれ常に、対象への同
化とそれにともなう主体の揺らぎ・危機を経験する中で「他者」と共存し
うる新たな地平、あるいはより普遍性ある地平を模索するのではないだろ
うか。交わされる恋人達の眼差の物語は、その神話的雛形であり続けるだ
ろう。共有される「肉」の地平において自他の「反転可能性」を説いたメ
ルロ=ポンティが自説の着想を得たのも、このヴァレリーの著述であった
という。

 パスカル・デュサパン(1955~) は、このヴァイオリンとヴィオラの
二重奏曲のタイトルに、愛の溜息Ohime(「ああ、なんということだ」と
いったニュアンスのイタリア語の悲嘆、苦悩、後悔等の間投詞)を挙げた
--「モンテヴェルディの言葉である」と自らその出典をあかしつつ。
 楽譜冒頭に作曲者の指示事項として「振り子の揺れのように」と記載さ
れているように、ヴァイオリン、ヴィオラともに、「揺れ」の運動が、自
由な発展にともなう揺らぎや逸脱--特に有機的関連をもって現れる、タイ
トルの由来と関連があると思われる悲嘆を表象するフィギュール的な大き
な跳躍下行音型--を含みながらも終始、根源的なモチーフ・楽想として貫
かれる。曲頭、ヴァイオリンはレガートを基調にゆったりと長い音価によ
る揺れを、ヴィオラはスタッカートを多用しつつ短い音価で変幻自在な揺
れの運動を見せ、両者は音楽的な様相ならびに時間の流れの対比による明
確な相違--他者性を帯びているが、時を共有していくなかで次第に…。

 ヴァイオリンとヴィオラというこの近くて遠い「他者」の邂逅、そして
愛の溜息Ohime--作曲者はここに何を託し、いかなる物語を紡ぎ出したの
だろうか.

 本作品はl’U.D.A.C. XXeの委嘱により作曲、1992年、パリの聖Blaise教
会にてDominique FerretとPierre Franckにより初演され、作曲家ベッツ
ィー・ジョラスに献呈されている。<T.S.>