音楽をもっと身近なものにするために、ヴァイオリンを中心にさまざまな楽器編成で、演奏機会の少ない現代・近代の作品を取り上げて、室内楽コンサートを行っています。初めて聴く音楽に耳を澄ます楽しみを味わってください。
過剰なピアニストへ
過剰なピアニストへ

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 大井浩明がピアノを弾いている姿を見ていても、とて
もピアノを弾いているとは思えない。たとえば、画家ル
オーがイーゼルではなくテーブル上に水平においたキャ
ンバスにむかって、絵筆でなくナイフを使っているモノ
クロ写真から、どうしてもパティシエを連想してしまう
ようなものだ。衣装のことも身体性のこともいわないに
しても。演奏中、なぜかピアノに対して窮屈なように見
えるし、演奏をはじめてからも、鍵盤上でなく譜面台を
気にしている手(あえて指とはいわない)の動きのほう
に目がいってしまう。そのような動きは何に相応しいの
だろうかと思って、休憩時間に隣人に訊ねてみると「マ
ッサージ師よ」とビールを片手に返ってきたあっけらか
んとした返事に、質問の前に用意すべきだった返す言葉
は、いまだに反論を見出せない。でもルオーの絵画は美
味しそうにはみえないけれど、このピアニストによる効
能は、そこから紡ぎ出される音とともに絶大なのかもし
れないと思ってしまえたのだ。
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 4曲目にピアノがクラヴサンに置き換わったら、ます
ますいけない。奏者がクラヴサンよりはみ出しているよ
うにも、指が鍵盤からはみ出しているように見える(勿
論、そのような大袈裟なことはない)。ここでも演奏し
ながら譜面台を前後し、追加のストップ操作に加え、な
ぜか音をたてているペダルに足下も繰返し覗いている。
両手で鍵盤を演奏しながら、なぜ、そんなことが可能な
のか不思議でならないが、譜面を繰り損ない、あるいは
繰った前頁を覗き返したり、バインダー代わりの(無地
にしてよねといいたくなる)スケッチ帳を閉じたり開い
たり。いうまでもなく、かといってこれらは聴こえてく
る音楽に何の齟齬もない。いすれにせよ、次回はホール
上手側の席にしよう。
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 さて、演奏されたのはヤニス・クセナキスの全鍵盤作
品。それも年代順。少し早めの開演時間などなど、に実
は終演は深夜に及ぶのか、と不安よりも期待(終電車懸
念不要)にもかかわらず、それはわたしの無知ゆえで、
それほどとんでもない時間までかかったわけではなかっ
たけれど、時間が押してアンコールはしょるというほど
の時刻にはなった。おまけに楽器交替と共演者闖入以外
に曲間で出入はなく、重ねられた楽譜を入れ替えながら
ほとんど雑作なく次が進められ、休憩時間等を除くと、
ほぼ作品の所要時間の合計の結果にしか過ぎない。
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 演奏された作品はこれもヤニスかと思わざるをえない
1950年の『ギリシャ民謡』からはじまって全部で9曲。
2曲目はなぜか(理由をのべるまでもなく名前は伏せて
おく)馴染み深い『ヘルマ  シンボリックな音楽』が
こんなにまでクリアに見え、聴こえた。見えたのは演奏
しているピアニストの手でなく、音そのもの。ちょっと
肩すかしをくらわされたほどのシンプルさ。時代が追い
ついたのか、われわれがたどりついたのか。(後年の内
弟子パスカル・デュサパンによると、その楽譜は初演者
が弾いてみるまで、長期間うちやられたままだったらし
い)その暗譜しなければ弾けないはずの全鍵盤の端から
端へと駆け巡る跳躍を、譜めくりながらやすやすとやっ
てのける。ダイナミックさと力強よさ。まるで時間を停
止しながら、それでも音だけを進行させる秘術でもある
かのように演奏が進む。構築されたフォルムがむしろ計
画性(恣意性)もなく、雑作なく出現してくる。それに
『エヴリアリ』がつづき、横に並べたクラヴサンに移っ
て『ホアイ』とピアノに戻って『ミスツ』で前半終了。
舞台と客席からロビーまでが、まるでチャンピョンのノ
ックアウトを待つ、なにかのマッチの最初のラウンドが
終了したかのような雰囲気。
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 後半は神田佳子のパーカションとのデュオ『コンボイ
/オォファ』とソロの『ナアマ』がクラヴサンで、ピア
ノは『r.へ』の短い作品のみ。小文字ながらラヴェルへ
のオマージュ。クロマチックな音の連続のなかで挿入さ
れる和音。そこで舞台上から遊離して、あらためてピア
ニストのソノリテやらレゾナンスに思い当たった。それ
はけっして知覚のアンビバレンツではない。あるいは、
そこの差異における裏返しの効果でもない。しかし、こ
こでも、ふたつの知覚(あるいはそれ以上の)を結びつ
けることはなかなか困難なのだ。
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 そしてデュオを待つまでもなく、やはり作曲家がなぜ
クラヴサンのための作品を書いたのかいぶかしく思うの
はこちらの無知さに過ぎないのだろう。すでに増幅(音
響/有馬純寿)が前提だった時代に加えて、きっと友人
であったらしい初演者の存在ゆえなのには違いない。
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 そして、大井浩明はピアニストである前にクラヴシィ
ニストらしい。勿論、その両方なのだろう。しかし、す
でに和音のなかに類いまれなレゾナンスを聴きとってい
たわたしは、どちらかというとアコースティック・ピア
ノを聴きたくなった。共演者がいる以上、全鍵盤楽器と
銘打つからには、なぜヴァイオリンとのデュオ『ディク
タス』やらが入っていないのだと難癖をつけるつもりも
ないけれど、ちまたでいわれているように、このピアニ
ストが「ほどほどをわきまえない」過剰さをもちあわせ
ているのだとすれば、アンサンブルはともかく、今日の
プロのソロをすべてをピアノで聴いてみたらという(編
曲がはいるかどうかはともかく)妄想を抱いたことを、
あえて最後に付け加えておこう。
         (2011/09/23 代々木白寿ホール)