音楽をもっと身近なものにするために、ヴァイオリンを中心にさまざまな楽器編成で、演奏機会の少ない現代・近代の作品を取り上げて、室内楽コンサートを行っています。初めて聴く音楽に耳を澄ます楽しみを味わってください。
カルチエミュジコ コンセール クワチュオール
/150531_QM48_AIP.jpgQUARTIERS MUSICAUX
カルチエミュジコ
コンセール クワチュオール
CONCERT QUATUOR
  
"ASIANS IN PARIS"
エイジアンズ・イン・パリス


2015年5月31日(日) 14h00開演
14h00 Dimanche 31 mai 2015


杉並公会堂小ホール
(JR/メトロ 荻窪駅)
Suginami Koukaido Salle Récital
JR/Metro Ogikubo
アクセス

▷▷チラシPDFを見る

ヴァイオリン 印田 千裕
 violon Chihiro INDA
ヴァイオリン 須山 暢大
 Nobuhiro SUYAMA violon
ヴィオラ 民谷 可奈子
 Kanako TAMITANI alto
チェロ 印田 陽介 
 Yosuke INDA violoncelle


■2つのヴァイオリンのための ソナチナ | 尹 伊桑
□Sonatina for 2 violin (1987) | Isan YUN
  (né en 1917 en Corée, vers Paris en 1956)

■弦楽四重奏曲 マル-ことば | ヒーラ・キム
□QUATUOR À CORDES Mal-Srache (2010) | Heera KIM
  (née en 1976 en Corée, vers Paris en 2011)

■弦楽四重奏曲 ハムサの樹 | 田蕾蕾
□QUATUOR À CORDES Arbre de Khamsa (2011) | Leilei TIAN
 (née en 1971 en Chine, vers Paris en 2001)

 * * * * * *

■弦楽四重奏曲第3番 | 野平一郎
□QUATUOR À CORDES nº3 (2005) | Ichiro NODAIRA
 (né en 1953 au Japon, vers Paris en1978)

■弦楽四重奏曲第1番 | グエン・ティエン・ダオ
□QUATUOR À CORDES nº1 (1991) | Nguyen Thien DAO
 (né en 1940 au viet-nam, vers Paris en 1953)

■ 弦楽四重奏曲 タタターII | 丹波 明
□TATHATÂ II pour Quatuor à cordes (2013) | Akira TAMBA
  (né en 1932 au Japon, vers Paris en 1960)


※演奏者・曲目は、変更される場合がございます。

チケット
〈全席自由〉
一般 \3000
学生 \2000
児童 \1000
パスリゾーム・会員 各\500引
未就学児 \100

後援 
日本現代音楽協会
社団法人 日本作曲家協議会
 


パスリゾームは、これまでのカルネにかわって新設された現代音楽を楽しむためのメンバーシステムです。
カルチエのみならず、参加する現代音楽コンサートで割引料金でチケットを購入できます。
 →詳しくは こちら
 →パスリゾームのサイト


〈コンセール クワチュオール〉チラシ
〈カルチエミュジコ コンセール クワチュオール 〜エイジアンズ・イン・パリス〜〉のチラシ裏面です。
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アンスティチュ(研究所)か、アンスティチューション(制度)か。
  野平一郎へのインタヴュ  
L'INSTITUT ou L'INSTITUTION?
  L'INTERVIEW D'ICHIRO NODAIRA  

【全文ロングバージョン】

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■■今回演奏する作品の作曲家の背景には、パリ側にもふたりの作曲家の存在があります。オリヴィエ・メシアン(1908-92)とピエール・ブーレーズ(1925-)です。最初に演奏されるユン・イサンは、56年にパリに行きますが、翌年にはベルリンに移ってしまいます。後半のダオと丹波明はメシアンの弟子で、それぞれにメシアンから決定的な影響をうけたと語っています。ダオは「真の私自身の姿を示し、独学で勉強していた作曲についての不安や懸念や絶望をとりのぞいてくれた」とのべていますし、丹波明は「(メシアンからは)なにも教そわらなかったが、すべてを教そわった」と語っています。パリに留学された78年は、ちょうど、このパリのふたりの作曲家のバトンタッチの時期だったということができます。

□□当時は作曲で留学することはないという風潮もあったのですが、でもピアノを演奏するのがすきで、芸大ではいろんなクラスに行ってピアノを弾いている時間のほうがよっぽどながかった。それで歌曲伴奏の勉強にドイツに行くことを考えていて、(東京芸大バッハ)カンタータクラブの先輩たちとドイツ語もならっていたのです。でも作曲もやりたいということで、パリ音楽院に留学しました。世界でもいちばんといってもいい対位法や和声やアナリゼやエクリチュールのクラスには行くつもりはなかったけれど、ブーレーズには興味があったのですよ。

メシアンの作曲クラスの最後の年でしたが、東京からみんなが行ってますし、時代としても、もうメシアンでもないだろう、と思っていたのです。結局、パリに13年間いて、『世の終わりのための四重奏』(の演奏)も聴いてもらいましたが、メシアンとは5〜6回すれ違っただけです。退官直後も残った学生の面倒をみる慣習があったのですが、そんなふうでもなく、ちょうど『アッシジの聖フランチェスコ』を書いていた時期で、公式なところにはあまり姿をあらわしませんでした。一方で、フランス政府の文化政策に反対して海外に追いやられていたブーレーズがフランスに帰ってきて、なにやらセンターらしきものを始めるというのも、パリに行こうと思った理由のひとつです。

■■ブーレーズの存在はおおきかったのですか。

□□ブーレーズの演奏を聴いていて、とても納得できていたのですね。

■■ピアノの演奏はいかがですか。50年代には、イヴォンヌ・ロリオと二台ピアノの演奏をしていましたね。エマールも「オリジナルな音響世界と演奏の身振りだった」と語っています。

□□ブーレーズのピアノはテープに録音された自作の『ストラクチュール第2巻』を聴いただけです。あとロリオとのドビュッシーの二台ピアノとかは聴いてみたかったですね。ブーレーズはベートーヴェンの最後のピアノソナタを弾いて、パリ音楽院のピアノ科をうけたけれど、だめだったようですよ。東京では、ドイツ歌曲の世界に自分を開いてくれた小林道夫のピアノにも同じことを思っていたのですが、納得できる演奏ということです。

■■パリ音楽院の卒業後には、メシアンのクラスにいたスペクトル派のレヴィナスやグリゼー、ミュライユたちが70年代にはじめたアンサンブル・イティネレールに参画します。

□□セリーの音楽とともにスペクトル派の音楽もよく聞いていました。ピアノ伴奏科で師事していたアンリエット・ピュイグ=ロジェの関係で、卒業演奏会にレヴィナスが聴きに来てくれて、イティネレールのイルカムとローザンヌのふたつのコンサートにピアニストとしてよんでくれたのがきっかけです。

■■その頃のイティネレールの活動はどのようなものだったのですか。

□□1月から6月までのシーズン中は毎月、パリで年間5〜6回のコンサートをやって、あとはツアーを組んだり、フェスティヴァルによばれたりしていました。マイナーな作曲家をとりあげていましたし、フランス人の作品はあまりやっていませんでした。お客さんが少なくても、毎回、演奏の前に、スペクトル派の作曲方法について、それぞれの作曲家自身がしっかりとしたレクチュアをしていたので、むしろ私自身が、たいへん勉強になりました。

■■アンサンブル・アンテルコンタンポランとのつながりができたのも、その延長だったのでしょうか。

□□パリ音楽院でメシアンの作曲クラスをついだセルジュ・ニッグは本当のアカデミシアンで、もうひとりのコンピューター音楽などをやっていたフィリポの弟子のマヌリからおしえてもらって応募したパネルが一等賞をとって、イルカムのイニシアシヨンの夏期講習に参加したのです。その頃のアンテルコンタンポランのピアニストは、ミッタンといってほかの奏者の半分のノルマで、3人で手分けしてこなしていたのです。でも、それでもとてもたいへんで、東欧系のペトレシュクはおかしくなってしまうし、フランス人のヌヴゥはクセナキスのピアノと金管のための『エオンタ』で、さらってこなかったことがあった。そんなわけで、いよいよエマールしかいなくなって、よく客演に呼ばれるようになったのです。アンサンブルでは、サーリアホやリンドベリィなどの作品に出会いました。

■■ブーレーズは、ポンピドゥ・センターのイルカムが、スイスやドイツでなく、フランスにできたのは偶然にすぎないと、皮肉なコメントをしています。

□□もともと、ドイツのマックス・プランク研究所に音楽学も含めたものを作ろうとしたようですが、歌手のディスカウの反対があってうまくいかなかった。1968年にはパリでもオペラ座の改革案をベジャールやヴィラールと提案して拒否されています。

■■ブーレーズは、59年にバーデン=バーデンに移住してフランスに帰ってこなくなってしまった。

□□もともとドイツ・オーストリア指向だったのではないのでしょうか。フランスでは制作もなかなかうまくいかないし、最初のドメーヌ・ミュジカルをやっていたときから、新ウィーン楽派の作品を積極的にとりあげていますし、はじめて指揮したのも、継続的な新作初演の約束を取りつけたのもドイツだし…。指揮者としてもマーラーやワーグナーをとりあげていますよね。たしかに、そんな経験が作曲する作品にもスケール感をもたらしたのは、間違いないと思います。

■■ポンピドゥ大統領がボーブールにアートセンターをつくるのをきっかけに、ブーレーズを呼び戻したわけですね。ブーレーズは、イルカムはアンスチテュ(研究所)であって、アンスティチューション(制度)ではない、といっています。フランス人はなにかにつけて「これはフランス革命以来の伝統(制度)だ」といいます。あるいは19世紀末のロマン・ロランからはじまった民衆演劇の系譜のなかで芸術家たちがかちとってきた文化政策がイルカムを生み出し、そのイルカムがフランスの文化政策の一翼を担っているともいえますね。メシアンが戦後すぐに対位法のクラスにいたブーレーズに「辟易している現代音楽を救うのは君だ」といったらしい予言が当たることになるわけです。

□□そういう意味では、ブーレーズにはたしかにアンスティチュへの志向はあったのでしょうね。三冊目の著作『参照点』でも「他者への眼差し」には、アンスティチュの一章がもうけられています。

■■またブーレーズは「(イルカムは)必要な刺激をあたえるだけだ」といっています。前半に演奏されるのは、中国のレイレイと韓国のヒーラは、イルカム前後の作品です。ふたりはスウェーデンとドイツに留学したのちに、2000年以降にイルカムで勉強しています。彼女たちにはもはや国境はないサンフロンチエールなのでしょうけれど。

□□いずれにしても(ドイツでなく)フランスへ行ったのはよかったと思っています。フランスは響きが重要な国であり、ドイツは理屈の国です。フランスに自分の求める方向性はあったと思います。 最近になって(パリの)フィルハーモニーもできましたが、フランスは文化においてもたいへん政治的な国です。極端な話では、コンサートのプログラムひとつきまるのにも政治の影響があります。ですから(同じ留学生でも)パリにいた年代で聴いていたものが異なるのです。

90年代になると6人組とかすこし古い時代のものもやるようになったようですが、80年代は西洋音楽史における現代音楽の亀裂があらわになった時代です。セリーの音楽とスペクトル派などのコンピューターをつかった音響作品が、水と油のように 対立して並列していた。 そういう多彩な時代に直面できたこともたいへん貴重な経験になったと思っています。

(□□野平一郎 ■■QM
 本文敬称略・2015年3月1日 於赤坂のスチュディオ)


プログラムノート
■2つのヴァイオリンのための ソナチナ(1987) | 尹 伊桑(ユン・イサン)
尹伊桑は、日本の占領下の現在の韓国南部で生まれ、のちに大阪で音楽を学び、いったん生地に戻って音楽の教職にもつき、いくつかの作品によって作曲家として認められるようになる。しかしその後、東京をへて1956年に渡仏するが、当時のフランスの状況にあきたらず、翌年にはベルリンに移り、ボリス・ブラッハー、ヨーゼフ・ルーファー、ラインハルト・シュバルツ=シリングなどのもとで、さらに作曲の勉強をつづけている。韓国においては、最初に西洋に赴いた作曲家として、また南北に分かれた祖国の政治的状況のなかで、その政治活動により死刑判決を受けた政治犯として(その獄中の凍える状況の中で五線譜と鉛筆だけで喜劇のオペラを書いた)知られているが、本質的な深層において、道教の教えにもとづきながら、西洋音楽と伝統的民族音楽の融合をはかった音楽家である。

この2本のヴァイオリンのための作品は、第2ヴァイオリンのド♯の単音にラとの和音が挿入されながらはじまり、やがて第1ヴァイオリンが加わり、同じような音形の和音が、ゆったりとしたテンポで、相互に掛け合うかのように奏でられる。途中、すこしテンポが上がり、さらに速くなって強奏の部分をへて、やがて速度がおちたのちにもとのテンポに戻る。最後はリタルダントのあと終曲になる。ゆったりとしたアルコの和音に挿入されるグリッサンドやピッツィカートが印象的であるが、テンポの変化のなかに終始一貫して、直裁な音にもかかわらずゆたかに音楽が流れていく。小曲ながらも作曲家の特徴をよくしめしている作品である。

■弦楽四重奏曲 マル-ことば(2010) | ヒーラ・キム
タイトルは韓国語で「ことば」を意味する。3年前出会ったブラジルからやってきたアーチストから見るべき有名でない韓国映画を推薦するようにもとめられた。この過程で、わたしは映画のストーリーや叙述構造よりも韓国語のイントネーション自体のほうにより興味を持った。ことばというものは音楽のように聞くことができることに気がつき、このアイディアは、この作品のおもなコンセプトとなっている。この作品で、ことばのイントネーションを音楽的素材として用いようとした。このおおげさなグリッサンドは、その音楽的素材のひとつである。全体は二つの部分にわかれている。
2011年5月、ベルリン・ドイツ・オペラで初演。

■弦楽四重奏曲 ハムサの樹(2011) | 田蕾蕾
ハムサは、アラブ語とヘブライ語で「5」をあらわすことばである、「ハムサ」は中近東と北アフリカのひとびとにとって、護符や魔除けや装身具として「悪」にたいして身を守るすべてのシンボルとして用いられている。
ときとして、5つの指と掌に目が描かれた手として表され、ある種の「防御の手」「神の手」を意味する。また、「生命の樹」の象徴でもある。
作品は、それぞれ独立した5楽章からなり、それぞれの楽章は樹の生育過程の特徴的状態である、種・根・幹・枝・実をあらわしている。
プロクワルテットとヨーロッパ室内楽センターの委嘱。

■弦楽四重奏曲第3番(2005) | 野平一郎
弦楽四重奏曲第3番は、ヴィオラの今井信子さんが主催するアムステルダムのイースト-ウェスト・アカデミーの委嘱作品として、2005年初頭に作曲された。同じ年の3月末から4月初頭に開催されたアカデミーは、西洋と東洋の若い奏者が一つのグループをつくって室内楽を学び、作曲者も参加して演奏者との交流や指導の一部を受け持つというもので、私自身は参加することが出来なくなったが、作品そのものはアカデミーで取り上げられた。2002年ロン=ティボー・コンクールで第1位になった山田晃子さんの第1ヴァイオリンを始め、ロシアと日本の混成チームによる弦楽四重奏によって、同年4月1日に初演された。

対照的な緩急の2つの楽章からなる。中央の音域のホ音を中心に、そこから拡散し、そこへと収斂する。緩急のテンポが楽章間の基本の違いだが、ゆっくりな動きの中にも忙しいディティールが隠されていたり、素早いテンポの中にも緩慢な大きな時間が隠されている。第1楽章は、音色のコンポジション。螺旋的な構造を持ち、中心音に戻ってはまた前とは別の展開を試みる。最後は音にならない音によって空中に消えて行く。第2楽章は、言葉の音化によるスケルツォ。一つの簡単な言葉を各楽器がまったく異なったリズムで表わして行く。再びホ音へと収斂し、別の展開を試みるが、道半ばでヴィオラがまず千鳥足で退場し、チェロが観客の目と鼻の先で奏しているのに、ヴァイオリンの2人は、遥か彼方に去ってしまうという遠近法によって曲が終わる。

■弦楽四重奏曲第1番 (1991)| グエン・ティエン・ダオ
全体は以下の6つの部分に分かれるがつづけて演奏される。低音の引き伸ばされた和音で始まり、暗い進行がときどき短い閃光で遮られる短いグラーヴにつづいて、おぼろげな響きのなかに錯綜した音が入り混じるロンターノをあいだにかいして、同じ音型が繰り返されながらも徐々に活動的になっていくルバート。
つづくアパショナートでは、大きく波打つトリルと和音の第1ヴァイオリン、揺れ動き続ける第2ヴァイオリン、高音にのぼりつめるピッチカートが響き渡るヴィオラを背景としてチェロが美しく歌い続ける。それを切り裂くような金属的な和音ではじまる対決であるデュエル。
最後のコン・ブリオでは繰り返されるトリルによってしめされる押し寄せる波が、砕け散って全曲を閉じる。
1992年3月29日ラヴェル弦楽四重奏団により、パリのサル・ガヴォで初演。ラジオ・フランスによる委嘱。

■弦楽四重奏曲 タタターII (2013)| 丹波 明
1968年に書いた「タタター I」に続くこの二番は、カルチエミュジコの委嘱で四十数年後に再度、同じ編成に取り組むことになりました。「タタター」とはサンスクリット語で、「真如」「如」と訳されている語で、あるがままの現象と云う意味で、万有に通じる真理ということです。私はこの様な理が有るかどうかは知りません。又、この様な真理をこの曲で表現したいと考えた訳でもありません。唯、ベートーヴェン、シェーンベルク、ドビュッシー、ベルクの後には何が有るべきかを考えただけです。ヨーロッパ音楽の表現手段の他に何が有るかを考えた時、日本の能楽から多くのものを学びました。この曲は、『タタター I』に比べて、意気込むことなく「序破急」書法で書きました。音の密度(音の数)、早さ、強さ、高さの漸進的増加の組み合わせによって構成されています 。
2013年カルチエミュジコ(印田 千裕、竹内弦、民谷可奈子、 津留崎直紀)により、2013年3月2日横浜みなとみらいホール小ホールで初演。