音楽をもっと身近なものにするために、ヴァイオリンを中心にさまざまな楽器編成で、演奏機会の少ない現代・近代の作品を取り上げて、室内楽コンサートを行っています。初めて聴く音楽に耳を澄ます楽しみを味わってください。
東京・夏のフェスティヴァル顛末
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「作曲家と楽曲はべつ」なのだろうか。しかし、作曲家
は楽曲を書くから作曲家なのであって、そのほかもろも
ろの大学教師とか会員組織などの役職は、作曲家である
ことを補填しているにすぎず、本来、楽曲を書くことと
はなんら関係はない。もちろん楽曲を書くのに作曲家で
ある必要もない。たまたま楽曲を書く人を、本人も周囲
も、ときに作曲家とよんでいるに過ぎない。あるいは
「楽曲は作曲家が生み出した子供のようなものだ」とい
うアナロジーは、やはり適切ではない。楽曲のみがひと
り歩きすることはあっても、それは音楽という芸術その
ものに潜在する本質に繋がるポピュリスムの問題であっ
て、本来楽曲と作曲家は一体であろう。
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このようにみてくると「楽曲と作曲家はべつ」というに
は無理があり、そのことを前提とするならば、作曲家の
覚せい剤所持・使用が判明した以上、楽曲の演奏がキャ
ンセルされてもいたしかたないのではないのだろうか。
それは消極的な「淀んだ」気持ちからではなくむしろ積
極的にそのような措置を支持すべきだと思う。支持に抵
抗があったとしても、上記の前提という仮定条件に限定
して、理解をしめすことは十分可能なはずである。賛成
はしないが、理解できるということである。
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それでは、なにのために積極的に支持するのだろうか。
それはいうまでもなく、ひとりの人物が覚せい剤をやめ
るという自覚をうながすきっかけとしてであり、その作
曲家を排斥することでも、その楽曲を抹消することでも
ない。(あるいは他者が許容する/しないという問題で
もない)覚せい剤など薬物は依存性と乱用性があるとい
われている。それを撲滅するためには、その経路である
常習者を撲滅すればいいというものでもなく(このよう
な思考経路はいうまでもなくアウシュビッツと隣り合わ
せである)、その人たちだけに任せておけばいいもので
もない。さらには、スポーツ選手のドーピング同様、楽
曲と覚せい剤を結びつけることはまったくのナンセンス
だと思う。それらの時期の作品を自動的に抹消すべきと
いう意見にも組みすることはできない。
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しかし、今回の顛末に積極的な支持をえることができな
かったとしたら、楽曲の演奏をキャンセルした側がなん
らの説明をしなかったからにほかならない。むしろ内輪
話のような本人すら報告もできない発言も含めて、部外
者は蚊帳の外におかれたままなら、今回のすべてが「コ
ップのなかの嵐」にすぎないし、そこでの活動がなんら
社会的なものでないということである。とくにコンサー
トという聴衆に開かれているはずの催事において、一般
民衆を差しおいてことが足れり、というのはなにをかい
わんやである。その点において今回の主催者は見事とい
っていいほどお粗末だった。(みずからが委嘱した)楽
曲をはずした理由も分からなければ、そもそもとりあげ
た理由も分からない。(4曲が半分になったらコンサー
トはなりたたないけれど、3曲なら中止せずにすんだと
いうのはどう考えてもおかしな話だ。)べつの作品をと
りあげることも、予定されていた演奏家なら、主催者側
の迅速な判断のもとにギリギリ間に合ったかもしれない。
なにのための文化なのか、だれのための文化なのか、文
化予算が少ないとまず声をあげるまえに、じぶんたちが
だれに向いて活動しているのかをまず考えるべきであろ
う。そうでなければ、やはりだれも文化に税金を使うこ
とをよしとしないであろう。
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補足的につけ加えておくなら,予定されていた演奏曲目
が半分になるというのは、上記のような主催者側の措置
に抗議して、予定されていたべつの作曲家が「作品を引
き上げる」可能性を示唆したと喧伝されているためであ
る。かれは、結局、その自分の作品が演奏されたコンサ
ートに出席しないという行為によって抗議の意志を示し
たらしい。この抗議にここでなんらコメントする必要は
ないと思われるが、そもそも(かつて委嘱した)楽曲あ
るいは(出版された)楽譜を所定の手続きのもとに、主
催者や演奏家がプログラムにとりあげることを作曲家が
拒否できるものであろうか。ここにも「作曲家と楽曲は
べつ」という冒頭の命題とも結びつく混乱がある。
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このように考えていくと、今回の措置がいつまでもつづ
いていいものでもない。時期をみる、あるいは時期がく
ればふたたび取り上げればいいのだし、今回のことがい
つまでもネックになっていてはいけない。そしてそれぞ
れの基準で時期を判断すればいいのであって、「社会的
合意」などというのは気持ちのわるいものでしかない。
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そして作曲家本人にたいしては、ほかのことはともかく、
(あるいは雑事から逃れて)これまでと同じように作品
を書くことをせつに望んでいる。それはいつかのことで
はなく、わたしたち作曲家でないものには信じられない
ことだが「紙と鉛筆されあれば」できるはずなのだから
すぐにでもはじめてもらいたい。そのことのみが、わた
したちの杞憂を払拭してくれるであろう。
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現在のわたしたちには時間が必要である。それは、もち
ろん忘却のための時間ではなく,再生のための時間であ
る。その時間が経過した時期をまっている。それは能天
気な日和見主義者の幻影なのだろうか。あるいは積極的
な主張なのだろうか。(現在ほど「日和見」という語源
のもつ柔軟さを思いださないわけにはいかない。)
      
                    03092010
                     松原道剛
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