音楽をもっと身近なものにするために、ヴァイオリンを中心にさまざまな楽器編成で、演奏機会の少ない現代・近代の作品を取り上げて、室内楽コンサートを行っています。初めて聴く音楽に耳を澄ます楽しみを味わってください。
『誤謬』のような、そうでないような
誤謬1web

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ながいコンサートだった。もちろん前半のコンクール本
選会をコンサートというならの話だが。今年度の作曲家
協会新人賞公募は、ハープをふくんだデュオに限定され
たテーマにもとづく応募作品からじっさいに5作品が演
奏された。どこかの楽譜と音源を提出するという要項に
違和感をいだいていた作曲家がいたけれど、こうした本
選会はたんなる「イベント」なのかどうか。もちろん、
厳正な楽譜審査のうえで、さらにじっさいの演奏を聴い
てさらに理解を深めるということは、音楽というものが、
そういう本質をおのずと備えているし、審査員である作
曲家にとっても必要だと主張することになにの違和感も
ない。むしろ聴衆賞というものではない、作曲家以外の
審査がはいる余地があってもいいのかもしれない。
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このようなことをとりたてて書き出したのは、今回はこ
のような公開審査以前に、じつは結果がでていたのでは
ないかと思われたからである。もちろん、なにを勘ぐっ
ている訳でもない。それほど最後に演奏された(演奏順
もこの想像に結びつくのではないかとあらためて思いい
たらないでもない)山本哲也の『誤謬』は異質だった。
ほかの4作品と比較してもそうだった。それが講評にも
あった「アイデンティティ」であるとされたのだろう。
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もとより、こちらは初演された5作品は、はじめて接す
るものばかりであったが、それは楽曲そのものについて
であって、ちらしからタイトルはわかっていたし、ブロ
グから作曲家ノオトも読むことによって先入観(を刷り
込まれること)もできたはずである。異質だったのは、
まずはそのタイトルである。それは、およそ楽曲のため
のタイトルにはふさわしくもなく、あるいはなにかロマ
ン風物語性を浮かび上がらせるようにも思えるが、実の
ところ、このタイトルは音楽について、音楽形式にたい
するタイトルであって、それは一種の「開き直り/逃げ」
である。いわばメタ・ミュージックのための作品タイト
ルである。
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そしてデュオの編成。ハープという楽器は、その旋律的
イメージでもって、楽器フォルムそのものともあいまっ
た「美しさ」に呪縛されてしまいがちである。それを打
ち破るひとつの方法は、デュオであるもうひとつの楽器
選定であろう。その意味でも、チェロやハープを選んだ
作品と比較しても、木管楽器とともに弦楽器でももっと
も低音楽器であるコントラバスを選んだ作品の優位性は
あきらかである。
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このタイトルはもちろん、作品の中味にも関係がある。
このようにいうのは、これを聴く前に聴いてきた4作品
をまえにして、音楽作品を書くということについて考え
を巡らせてきたからである。ある作品をなにの音からは
じめるのか、どのようにはじめるかということは、とく
に時間芸術である音楽では、全体の枠組が分からないう
ちから、どの作曲家も心を砕くであろう。しかし、ある
いは、ときとして、突然、まったく全体の見通しもない
うちから、思いつくことがあるかもしれない。
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しかし、それとは反対に書いてきた音楽をどのように終
わらせるのかということも、全体構成とあいまって、同
じように難しいということにあらためて認識させられて
いた。それは、後半のコンサートで演奏された作品(と
くに最後の新作初演作品)と比較してもあきらかであろ
うし、そこに経験とか年功を見いだすとしても許される
であろう。いわば、近藤譲が詳しく定義付けをこころみ
ている「音楽のディスコース」といっていいのかもしれ
ない。聴いていて、こちらの想像のようには終わってく
れない、あるいは終わったと思うのにさらに続くのであ
る(こういった聴衆の想像/先入観はなにものでもない
けれど、裏切られるにしても、やはりニヤッとさせてく
れなくては)。あるいは、それとも作曲家はまず最初に、
最後を思いつくことはあるのだろうか。
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しかし、このディスコースにも『誤謬』だといって(そ
しておそらく「ごめんなさい」といいながら)はぐらか
してしまったのである。プログラムノオトによれば「曲
全体としては,比較的短い時間の中でこの編成において
単純にやりたいことを全て提示し、出し切ってしまった
ら曲を終えるという構成」になっている。もちろん、こ
れは構成ではない。すなわち作曲ではない。脱構成/脱
作曲といえるものである。
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これらは、ようするに、いわばアイディアである。画家
ドガが詩を書けないとマラルメに吐露する会話を引用し
て「(大文字ではじまる)アイディアとはいかほどの重
要性があるのでしょう」といいきるデュサパンに倣えば、
しかし、それはアイディアでしかない。そしてこの『誤
謬』に満載された音楽アイディアとともに、このような
さまざまな「目くらまし」(あるいは「耳くらまし」と
いうべきか)によって、作曲家である審査員も、ミラン
からやってきたディレクトリスも、会場の聴衆も、見事
に(そして素晴らしく)騙されたのである。
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しかし、もちろん喧伝されてすでに随分と久しいアイデ
ンディティも、いうまでもなく、それがあればいいとい
うものでもない。これからはどのようなアイデンティテ
ィなのかが問われるのであろう。再演されるミラネーズ
風だろうか。期待はつきない。

近藤譲『音を投げる』
パスカル・デュサパン『作曲のパラドックス』
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