音楽をもっと身近なものにするために、ヴァイオリンを中心にさまざまな楽器編成で、演奏機会の少ない現代・近代の作品を取り上げて、室内楽コンサートを行っています。初めて聴く音楽に耳を澄ます楽しみを味わってください。
プログラムノート/丹波明〈カルチエドトンヌ2011〉
カルチエ・ドトンヌ2011 丹波明コンセールポルトレ 
プログラムノート


 今日、お聴きいただく4曲は、はじめのソナタと最後のピアノ四重奏曲では、約50年の隔たりがあり、この4曲を通して私のたどった作曲生活の変遷を聴いていただこうというものです。 
 私の音楽上の変革は1968年にあります。その前にも、少しずつ私自身の中に変革の兆しはあったのですが、68年以前は個人の次元で行われていたのに対し、68年以後は皆の、社会の問題として把握されました。第二次世界大戦を戦勝国として終わり、真理を探し求めていたフランスは20年後、あらゆる分野で改革の必要に迫られ、学生達が先頭に立ち上がったのです。音楽も例外ではありませんでした。このような情況の中で、ローマ賞、音楽院のコンクール制度も廃止され、伝統一辺倒の音楽院にも、現代音楽の兆しが射しはじめたのです。このヴァイオリン・ソナタで、個人的な控え目な変革を、弦楽四重奏以後は一般化し、表面化した改革をお聴きいただくわけです。


ヴァイオリンとピアノのためのソナタ
Sonate pour violon et piano (1961)(日本初演)

 この曲は私が書いた3つのソナタの最後のもので、パリ音楽院の枠の中で書き、今回の演奏に当たって、数ヶ所、手を入れました。第1楽章はヴァイオリンの独奏序奏で始まり、これが若々しい飛躍のある第1主題、瞑想的で透明な第2主題につながります。第2楽章は4度、5度の連続を旋律の主要音程にした緩慢な楽章です。第3楽章は半音階を多く含む主題をフーガ的な書法で処理し、中間部に瞑想的な部分をもつ3部形式で、様式的にも、時間観でも全く古典の概念をでるものではありません。


弦楽四重奏曲 『タタター』
弦楽四重奏と音量調節機のための(1968)
TATHATÂ pour Quatuor à cordes et potentiometer (1968)

 この弦楽四重奏は上記の改革の気運の中で書いたもので、主題、展開部、再現部は全く省略され、これに変わって細胞組織(最小構造)を取り、一曲の構造(最大構造)は漸進的に増加する刺激の量のよって構成されていきます。従って、雑音、掛声、制御された偶発性、長いグリッサンド、倍音によるカスレタ音、長いトリル等が素材として使われています。曲は2部分から成っており、それらの各々は、掛声と弦という同じ素材で始まります。第1部は加速する長いグリッサンドと掛声、第2部は8分の6という完全な洋楽のリズムの中で、掛声とピチカットが奏されます。しかし、この2部分は全く異なった時間観によって構成されています。前者は流れる「自然の時」の観念で、後者は人間が当てはめた「尺度の時間」です。1968年の私の変革は「尺度の時間」だけで作られている洋楽の中に「自然の時」の時間観をどのように挿入するかということでした。そして、この2つの時間観に、これらを累積した3つ目の「融合時間」が68年以後の作品を構成する時間観として使われています。今回は音量調節機なしで演奏されます。


チェロ独奏曲 『エレマンタル IV』
独奏チェロのための (1979)
ELÉMENTAL IV pour violoncello seul(1979)

 題名の「エレメンタル」はある楽器の本質、基礎的性格、可能性を探究しようという意味で付けられたもので、この曲はその4番目に当ります。レーヌ・フラッショとヌムール・チェロ音楽祭の委嘱で書きました。曲がチェロ独奏曲のため、自由に流れる「自然の時」の時間観を主軸とし、人間の「尺度の時間」は小さな細胞、音型の中で使われ、この曲の各所に表われます。



ピアノ四重奏曲 『テトラクロニ』
弦楽三重奏とピアノのための(4つの時性)(2008)(日本初演)
TÉTRACHRONIE pour trio à cordes et piano (2008)

 この曲はフランスの北にある小さな町ベルノン市での在住作曲家の任期間の2007-08に書いたものです。この仕事は、この期間内に新曲を1・2曲書くことと、町の文化活動(茶道、華道、伝統演劇)等を知らせる、音楽学校の活性化(邦楽の演奏家と洋楽の先生たちの研修会での楽器の違い、技術、記譜法、音楽観の相違を理解してもらう)等に協力するというものです。初演はパリ管弦楽団の団員による弦楽トリオ、ユーテルプにベルノン音楽学校の教師アンヌ・ガエルのピアノで行われました。曲の出だし、細胞の累積部などには自由な「自然の時」が使われていますが、細胞そのものの構成に、古典音楽的なハッキリとした「尺度の時間」を感じさせるリズムを、また、細胞累積後のクライマックスは、縦の線を制御する「尺度の時間」が使われているため、かなり古典的な時間を感じさせる曲となっています。

(丹波 明)

(訳註)
細胞組織
丹波明は和声組織をもたない能音楽のなかに、縦の線を制御する同時性からも開放され、人間の知覚に基礎をおいた伸縮性のある心理的音価をもった音楽構造を見出す。これは即興演奏でも、決定性を欠いた怠慢なものでもなく、楽音の雑音化・不規則で大きなヴィブラート・メリ/カリの浮動する音程・伸び縮みするテンポ・グリュッサンド・玉音・掛声などにより、聴衆の心理・知覚を直接刺激して主観的強度を増加させることができる、これらの限られた領域における自由さである音要素を、言語における「語」に相当する最小構成単位として、音楽における「細胞組織」と名付けている。能音楽において序破急の統辞法の原則にしたがってこの細胞組織を並列・累積することにより、本来は意味構造をもたない音楽に構造を確保することが可能となる。このような非決定音楽の細胞組織をもった能音楽から抽出した原則と現代ヨーロッパ音楽の書法を包含した上に、精神生理学的要素に基づいた「序破急書法」の原則が創出され、12音音列書法以降の「複数の音楽」の時代にふさわしい、普遍性をもったあらたな書法のひとつとして提案されている。


掛声
丹波明『能音楽の構造』の補章において、鎌倉時代に観阿弥と世阿弥によって構築された能の音楽における掛声とその音楽的効果が、やがて室町時代にこの国の仏教における宗教改革とも呼べる大陸からの導入された禅宗で、とくに臨済宗の開祖臨済によって発せられた喝と結びついて精神的意味をもったことについて触れられている。この章において引用されているポール・クローデルは「能」(『朝日のなかの黒い鳥』1927所収)のなかで「囃子方たちの発する長い叫び声は、夜のあいだの野の声、自然からの形をなさない呼び声のように、広がりと隔たりのある異様で劇的な印象を与える。さらには、ことばのほうへ漠然とむかう動物の叫び、つねに失望させられる声、絶望的努力、苦悩と虚空の証言である。」と能の掛声についてふれ、べつのところで、この「あぁ」という間投詞について、みずからが以下のような注釈を加えている。  日本文学には、事物の「あわれ」を知る(モノノアワレヲシル)という表現がある。それは、あらゆる事物のなかにある「あぁ」を創り出すものである。  この言い回しには、上記の訳者内藤高が指摘するように出典元であるアンリ・フォシヨンの『仏教美術』(1921年)に「日本の特質」としてほぼ同一のものがある。  「もののあぁを知る」とは、いわばものの悲しみ・隠された生・潜在する感情であり、普遍的調和に混合されている穏やかさや苦悩の質のことである。これを知ることは秘められた詩情に心を動かされ、一体となった教訓を聴きとることである。犠牲・慈悲・善意の精神に到達することである。
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック