音楽をもっと身近なものにするために、ヴァイオリンを中心にさまざまな楽器編成で、演奏機会の少ない現代・近代の作品を取り上げて、室内楽コンサートを行っています。初めて聴く音楽に耳を澄ます楽しみを味わってください。
アンスティチュ(研究所)か、アンスティチューション(制度)か。
  野平一郎へのインタヴュ  
L'INSTITUT ou L'INSTITUTION?
  L'INTERVIEW D'ICHIRO NODAIRA  

【全文ロングバージョン】

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■■今回演奏する作品の作曲家の背景には、パリ側にもふたりの作曲家の存在があります。オリヴィエ・メシアン(1908-92)とピエール・ブーレーズ(1925-)です。最初に演奏されるユン・イサンは、56年にパリに行きますが、翌年にはベルリンに移ってしまいます。後半のダオと丹波明はメシアンの弟子で、それぞれにメシアンから決定的な影響をうけたと語っています。ダオは「真の私自身の姿を示し、独学で勉強していた作曲についての不安や懸念や絶望をとりのぞいてくれた」とのべていますし、丹波明は「(メシアンからは)なにも教そわらなかったが、すべてを教そわった」と語っています。パリに留学された78年は、ちょうど、このパリのふたりの作曲家のバトンタッチの時期だったということができます。

□□当時は作曲で留学することはないという風潮もあったのですが、でもピアノを演奏するのがすきで、芸大ではいろんなクラスに行ってピアノを弾いている時間のほうがよっぽどながかった。それで歌曲伴奏の勉強にドイツに行くことを考えていて、(東京芸大バッハ)カンタータクラブの先輩たちとドイツ語もならっていたのです。でも作曲もやりたいということで、パリ音楽院に留学しました。世界でもいちばんといってもいい対位法や和声やアナリゼやエクリチュールのクラスには行くつもりはなかったけれど、ブーレーズには興味があったのですよ。

メシアンの作曲クラスの最後の年でしたが、東京からみんなが行ってますし、時代としても、もうメシアンでもないだろう、と思っていたのです。結局、パリに13年間いて、『世の終わりのための四重奏』(の演奏)も聴いてもらいましたが、メシアンとは5〜6回すれ違っただけです。退官直後も残った学生の面倒をみる慣習があったのですが、そんなふうでもなく、ちょうど『アッシジの聖フランチェスコ』を書いていた時期で、公式なところにはあまり姿をあらわしませんでした。一方で、フランス政府の文化政策に反対して海外に追いやられていたブーレーズがフランスに帰ってきて、なにやらセンターらしきものを始めるというのも、パリに行こうと思った理由のひとつです。

■■ブーレーズの存在はおおきかったのですか。

□□ブーレーズの演奏を聴いていて、とても納得できていたのですね。

■■ピアノの演奏はいかがですか。50年代には、イヴォンヌ・ロリオと二台ピアノの演奏をしていましたね。エマールも「オリジナルな音響世界と演奏の身振りだった」と語っています。

□□ブーレーズのピアノはテープに録音された自作の『ストラクチュール第2巻』を聴いただけです。あとロリオとのドビュッシーの二台ピアノとかは聴いてみたかったですね。ブーレーズはベートーヴェンの最後のピアノソナタを弾いて、パリ音楽院のピアノ科をうけたけれど、だめだったようですよ。東京では、ドイツ歌曲の世界に自分を開いてくれた小林道夫のピアノにも同じことを思っていたのですが、納得できる演奏ということです。

■■パリ音楽院の卒業後には、メシアンのクラスにいたスペクトル派のレヴィナスやグリゼー、ミュライユたちが70年代にはじめたアンサンブル・イティネレールに参画します。

□□セリーの音楽とともにスペクトル派の音楽もよく聞いていました。ピアノ伴奏科で師事していたアンリエット・ピュイグ=ロジェの関係で、卒業演奏会にレヴィナスが聴きに来てくれて、イティネレールのイルカムとローザンヌのふたつのコンサートにピアニストとしてよんでくれたのがきっかけです。

■■その頃のイティネレールの活動はどのようなものだったのですか。

□□1月から6月までのシーズン中は毎月、パリで年間5〜6回のコンサートをやって、あとはツアーを組んだり、フェスティヴァルによばれたりしていました。マイナーな作曲家をとりあげていましたし、フランス人の作品はあまりやっていませんでした。お客さんが少なくても、毎回、演奏の前に、スペクトル派の作曲方法について、それぞれの作曲家自身がしっかりとしたレクチュアをしていたので、むしろ私自身が、たいへん勉強になりました。

■■アンサンブル・アンテルコンタンポランとのつながりができたのも、その延長だったのでしょうか。

□□パリ音楽院でメシアンの作曲クラスをついだセルジュ・ニッグは本当のアカデミシアンで、もうひとりのコンピューター音楽などをやっていたフィリポの弟子のマヌリからおしえてもらって応募したパネルが一等賞をとって、イルカムのイニシアシヨンの夏期講習に参加したのです。その頃のアンテルコンタンポランのピアニストは、ミッタンといってほかの奏者の半分のノルマで、3人で手分けしてこなしていたのです。でも、それでもとてもたいへんで、東欧系のペトレシュクはおかしくなってしまうし、フランス人のヌヴゥはクセナキスのピアノと金管のための『エオンタ』で、さらってこなかったことがあった。そんなわけで、いよいよエマールしかいなくなって、よく客演に呼ばれるようになったのです。アンサンブルでは、サーリアホやリンドベリィなどの作品に出会いました。

■■ブーレーズは、ポンピドゥ・センターのイルカムが、スイスやドイツでなく、フランスにできたのは偶然にすぎないと、皮肉なコメントをしています。

□□もともと、ドイツのマックス・プランク研究所に音楽学も含めたものを作ろうとしたようですが、歌手のディスカウの反対があってうまくいかなかった。1968年にはパリでもオペラ座の改革案をベジャールやヴィラールと提案して拒否されています。

■■ブーレーズは、59年にバーデン=バーデンに移住してフランスに帰ってこなくなってしまった。

□□もともとドイツ・オーストリア指向だったのではないのでしょうか。フランスでは制作もなかなかうまくいかないし、最初のドメーヌ・ミュジカルをやっていたときから、新ウィーン楽派の作品を積極的にとりあげていますし、はじめて指揮したのも、継続的な新作初演の約束を取りつけたのもドイツだし…。指揮者としてもマーラーやワーグナーをとりあげていますよね。たしかに、そんな経験が作曲する作品にもスケール感をもたらしたのは、間違いないと思います。

■■ポンピドゥ大統領がボーブールにアートセンターをつくるのをきっかけに、ブーレーズを呼び戻したわけですね。ブーレーズは、イルカムはアンスチテュ(研究所)であって、アンスティチューション(制度)ではない、といっています。フランス人はなにかにつけて「これはフランス革命以来の伝統(制度)だ」といいます。あるいは19世紀末のロマン・ロランからはじまった民衆演劇の系譜のなかで芸術家たちがかちとってきた文化政策がイルカムを生み出し、そのイルカムがフランスの文化政策の一翼を担っているともいえますね。メシアンが戦後すぐに対位法のクラスにいたブーレーズに「辟易している現代音楽を救うのは君だ」といったらしい予言が当たることになるわけです。

□□そういう意味では、ブーレーズにはたしかにアンスティチュへの志向はあったのでしょうね。三冊目の著作『参照点』でも「他者への眼差し」には、アンスティチュの一章がもうけられています。

■■またブーレーズは「(イルカムは)必要な刺激をあたえるだけだ」といっています。前半に演奏されるのは、中国のレイレイと韓国のヒーラは、イルカム前後の作品です。ふたりはスウェーデンとドイツに留学したのちに、2000年以降にイルカムで勉強しています。彼女たちにはもはや国境はないサンフロンチエールなのでしょうけれど。

□□いずれにしても(ドイツでなく)フランスへ行ったのはよかったと思っています。フランスは響きが重要な国であり、ドイツは理屈の国です。フランスに自分の求める方向性はあったと思います。 最近になって(パリの)フィルハーモニーもできましたが、フランスは文化においてもたいへん政治的な国です。極端な話では、コンサートのプログラムひとつきまるのにも政治の影響があります。ですから(同じ留学生でも)パリにいた年代で聴いていたものが異なるのです。

90年代になると6人組とかすこし古い時代のものもやるようになったようですが、80年代は西洋音楽史における現代音楽の亀裂があらわになった時代です。セリーの音楽とスペクトル派などのコンピューターをつかった音響作品が、水と油のように 対立して並列していた。 そういう多彩な時代に直面できたこともたいへん貴重な経験になったと思っています。

(□□野平一郎 ■■QM
 本文敬称略・2015年3月1日 於赤坂のスチュディオ)


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