音楽をもっと身近なものにするために、ヴァイオリンを中心にさまざまな楽器編成で、演奏機会の少ない現代・近代の作品を取り上げて、室内楽コンサートを行っています。初めて聴く音楽に耳を澄ます楽しみを味わってください。
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デュサパン『オイメ』
Pascal DUSAPIN
Ohime, duo n°1 pour violon et alto

<交じりあう>視線について
 この交じりあい(という表現はぴったりだ)は、ごく短期間、ふたつの
<運命>、ふたつのものの見方のあいだで、入れ替え、置き換え、移し替
え[=キアスマ]を実現する。その結果一種の同時相互規制が生じる。君
はわたしのイメージ、風貌を帯びてき、わたしは君の風貌を帯びる。君は
わたしではない、というのも君はわたしを見ているからだし、わたしは自
分が見えないから。わたしに欠けているのは、この、君が見ているわたし
だ。そして君の方に欠けているのは、わたしが見ている君だ。
 たとえわたしたちがまだ互いに深く知り合っていなくても、互いに映し
あえばあうほど、いっそう相手に似てくるだろう。そして残りの部分もす
べて同じになり、きっと…共有することになるだろう。
 そして互いの視線がバラバラになれば、その分互いの姿が見えなくなる
から、私たちはかえっていっそうお互い見分けがつかなくなるだろう。
 わたしが君を見るのは、君にならないためだ、わたしは「君」じゃない
から。

ポール・ヴァレリー『言わないでおいたこと』から
「キアスマ(交叉、移し替え)」東宏治訳

 人は「他者」との出会いにおいて、程度の差こそあれ常に、対象への同
化とそれにともなう主体の揺らぎ・危機を経験する中で「他者」と共存し
うる新たな地平、あるいはより普遍性ある地平を模索するのではないだろ
うか。交わされる恋人達の眼差の物語は、その神話的雛形であり続けるだ
ろう。共有される「肉」の地平において自他の「反転可能性」を説いたメ
ルロ=ポンティが自説の着想を得たのも、このヴァレリーの著述であった
という。

 パスカル・デュサパン(1955~) は、このヴァイオリンとヴィオラの
二重奏曲のタイトルに、愛の溜息Ohime(「ああ、なんということだ」と
いったニュアンスのイタリア語の悲嘆、苦悩、後悔等の間投詞)を挙げた
--「モンテヴェルディの言葉である」と自らその出典をあかしつつ。
 楽譜冒頭に作曲者の指示事項として「振り子の揺れのように」と記載さ
れているように、ヴァイオリン、ヴィオラともに、「揺れ」の運動が、自
由な発展にともなう揺らぎや逸脱--特に有機的関連をもって現れる、タイ
トルの由来と関連があると思われる悲嘆を表象するフィギュール的な大き
な跳躍下行音型--を含みながらも終始、根源的なモチーフ・楽想として貫
かれる。曲頭、ヴァイオリンはレガートを基調にゆったりと長い音価によ
る揺れを、ヴィオラはスタッカートを多用しつつ短い音価で変幻自在な揺
れの運動を見せ、両者は音楽的な様相ならびに時間の流れの対比による明
確な相違--他者性を帯びているが、時を共有していくなかで次第に…。

 ヴァイオリンとヴィオラというこの近くて遠い「他者」の邂逅、そして
愛の溜息Ohime--作曲者はここに何を託し、いかなる物語を紡ぎ出したの
だろうか.

 本作品はl’U.D.A.C. XXeの委嘱により作曲、1992年、パリの聖Blaise教
会にてDominique FerretとPierre Franckにより初演され、作曲家ベッツ
ィー・ジョラスに献呈されている。<T.S.>
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