音楽をもっと身近なものにするために、ヴァイオリンを中心にさまざまな楽器編成で、演奏機会の少ない現代・近代の作品を取り上げて、室内楽コンサートを行っています。初めて聴く音楽に耳を澄ます楽しみを味わってください。
イン・ビトゥイーン-作曲家による解説-
イン・ビトゥイーン
弦楽トリオのための
(第1ヴァージョン, 2008年10月)
カルチエミュジコのトリオに

この作品は、わたしのヴィラ九条山でのレジデンスというコンテクストに
よって可能になった、まったく独特なエクリチュールの経験にかかわるこ
とです。

日本の伝統音楽、とくに能楽における音楽が、どのようにわたしに感染し
てしまうのでしょうか。

なにかがやってくるままにするために、わたしのいつものエクリチュール
を脇によせておいたのです。

日本の伝統音楽におけるユニゾンの不在にたいするわたしの眩惑から、す
べてがはじまったのです。たとえば、能楽の地謡のように、あるいは、ほ
かの音曲のように。音楽家たちは同じものを演奏していますが、それぞれ
の独自性を失ってはいません。
「同じ」ことの不可能性のなかに存在する詩情である、分割されたひとつ
の仕草の意味とてこの輻輳した音符にもとづいて推敲を進めたいと思いま
した。

今回の滞在によって、ほかのおおくのものとともに、能楽によって、夢見
るための素材を提供されました。
こうして、それらのたくさんのテクストの構成のなかに、語りのクローン
である音符が遍在することになりました。ひとつのテクストが、わたしを
引き止めました。世阿弥による『実盛』です。年老いた侍の亡霊が、老齢
という敗北を受け入れることができずに、さまよっているのです。
ところで、老人役に化身した能楽師は、世阿弥によると、その年齢をあら
わすために、音楽と比べて若干「遅れて」舞うのだそうです。こうして、
おおくの作品にみられるように、反復された時間的構成をもつこの能楽は
、彼自身が二重人格という存在である登場人物になるのです。

しかしこの能楽は、また、このトリオ作品のなかにべつのものを刷り込ん
だのです。

こうして能舞台の床上に、ほとんど浮かぶようにすり足をする能楽師の歩
みの遅さ、繊細さ、官能性が出現するのです。
この「レシタティヴ」すなわち「ことば」の特徴ある抑揚は、つねに同じ
メロディの横顔をもっています。
沈黙は、ほとんどゆるぎないものです。
舞は、まさに能楽の同時的に形式的・精神的はけ口です。語形論的音符の
形体における確定された音程の欠如、そして旋律的イデーの扱いにたいす
るとまどいなど。
日本の時間芸術において遍在する構成である「序破急」、すなわち導入・
展開・加速。

無意識の刷り込みを語ることなく…。

こうして実盛の歩みについて、『イン・ビトゥイーン』は、わたしの文化
とわたしが日本の音楽のなかに、見い出しはじめたばかりの世界、そこで
ひとつであるものが、たえずふたつになる、かぼそい糸の上である、出会
いつづけるふたつの世界の稜線を歩むのです。

クレール=メラニー・シニュベール

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