音楽をもっと身近なものにするために、ヴァイオリンを中心にさまざまな楽器編成で、演奏機会の少ない現代・近代の作品を取り上げて、室内楽コンサートを行っています。初めて聴く音楽に耳を澄ます楽しみを味わってください。
大フィルのデュサパン



ひさしぶりに、大阪で大フィルの定期公演を聴くことができた。こ
の地にフェスティヴァルホールはすでになく、いつかコンサートで
はなく、有名フランス人俳優の一人芝居を見に来た、駅裏再開発と
やらで道に迷いながらたどりついたシンフォニーホールでの公演。
こちらも隣のホテルは、かつての賑わいはなく、亡霊でもすんでい
そうなたたずまい。

開演間近にシューボックス式の上階席についたら、最初のプログラ
ムはクロード・ドビュッシーの『春』。「プリマヴェーラ」かなど
と(たしかにボッティチェルリの名画も作曲家にインスピレーショ
ンを与えたらしい)知ったかぶりをする間もなく、作曲家にも曲名
にも、どちらも馴染みやすい名前からはうっかりしていたけれど、
はじめて聴く曲だった。冒頭、フルートとピアノのユニゾンの単旋
律のゆったりとしたメロディーが、短調にうつりながらほかの楽器
にひろがっていくなかで、印象派の面目躍如といった世界へいざな
われる。はじめて聴く曲なのに客席で能天気でいられるのは、印象
派がわれわれにとって歴史のなかに組み込まれてしまったからだろ
うか。

この曲は、若きドビュッシーがローマ賞を得て(いつまでパリはロ
ーマをおっかけているのか。そういえば、なぜアテネではないのか。
最近になって設立された京都・ヴィラ九条山はオリエンタリスムゆ
えの時代の趨勢か)ヴィラ・メディシスへむかったはいいけれど、
そこでは退屈の極みを味わい、やっとごまかしてこの作品の前身た
る合唱とピアノのための作品を提出したあげく、サン=サーンスに
よって受理を拒否されるという憂き目に(とくに冒頭からその世界
に引き込まれた第一楽章のほう)あった作品である。

元のスコアは焼失したとの言い訳めいた理由(もちろんコピー時代
の現代では通じるわけもない)とともに、もしそのヴォーカリーズ
が再現できたら、最後のラヴェルと対照的になるのになどとあらぬ
想像をめぐらしてしまった。後半の第2楽章ではオーケストラも厚
くなり、テンポもあがリ、さすがに拒否されるまでにはいたらない
と思うが(このふたつの楽章を比較すると当時のアカデミーの嗜好
がよくわかる)、いつまでも印象派の域からはずれることもなく、
『牧神』なども想起される時代にあらがってきたやんちゃ坊主クロ
ードののちのちを想像させられる作品なのである。

さて、今回の「西行き」のお目当ては、2曲目のパスカル・デュサ
パンの『エクステンソ』。オーケストラのための「ソロ」シリーズ
第2曲にあたる1993-94年の作品。リヨンのオケにレジデンスで滞在
していた時期に、そこのパーカッショニストたちとのコラボによっ
て、誕生したと喧伝される作品。このシリーズは、もうおしまいな
のかと思いきや、一昨年にもラトル/ベルリンフィルのために書い
ているし、この月末には今回の指揮者パスカル・ロフェとベルギー
のリエージュ・フィルによって新作の第7番『アンカット』が、パ
リで初演される予定。

「ソロ」というのは3管編成の集団としてのオーケストラの各楽器
の個別的に分断されたハーモニーではなく、オーケストラ全体をひ
とつの塊としてとらえ、それらの総体としての「ソロ」の作品とい
った意味である。それゆえ、バルトークなどのオーケストラル・コ
ンチェルトとは対局にあり、また「エクステンション」を意味する
タイトルともあいまって、冒頭の弦楽器による規則的な動きから、
それを引き継ぐような管楽器群によるロングトーンの羅列が、レガ
ートでもって引き延ばされ、「音」が途切れることなく持続される。

解説にあった「高速撮影スロー再生(中略)に細かい断片がまとわ
りつく」という表現は言い得て妙である。やがて例のスネアドラム
や銅鑼を中心としたふたりのパーカッショニストたちも出現して乾
いたリズムとともに効果的に活躍し始めるが、けっして彼らはソリ
ストになる間もなく、全体が一体となって巨大なソロ作品の塊を築
き上げて行く。

デュサパンの作品を多く紹介しているこの指揮者による、冒頭から
の緊張感と後半の弛緩感のバランスのかねあいの妙がなんともいえ
ず、デュサパンのいうように「曲がりくねって、揺れ動く、とても
静かに、ちょっと傾き、不規則なカーブを描きながら、それからも
ちなおす」一本のラインを想像しながら、ディテールをあきらかに
されたスローモーション(それでも崩れることのない作品構成)は、
はじめてこの作曲家を聴く聴衆にとっても、すっと身体のなかには
いってきたのではないかと思われた。

ちなみにこの作品は同じ頃書かれた『ワット』『チェロ』『アペッ
クス』とともに、2001年パリ・オペラでの先鋭的振付師ジャン=ク
ロード・ガロッタによるバレエ公演の音楽に使われており、なんと
その公演タイトルは『吸血鬼ノスフェラトゥ』。こういうとらえか
たも一面的だと思えるが、今回音楽だけを聴かれた方はどう思われ
るだろうか。

公演後の指揮者は例のパリ公演について、そのときには初演作品の
みならず、「ソロ」シリーズ全曲で一晩のプログラミングを立てて
いることに触れていた。それはともかく、この地に於いても数年か
かってでもこのシリーズをとりあげてもらえればと思う。 1950年
代以降のフランスのスペクトル派(デュサパンは、それとは別の音
楽史に属していると自任しているが…)をはじめとする「現代曲」
はじっさいに、演奏される現場で聴くことによって、はじめてわか
ることがあまりにも多すぎる。それに蛇足的に付け加えておくなら、
最低3回は繰返し聞いてほしいと、ある作曲家は語っていたし、デュ
サパンは音楽の聴取を「やむことのない瞬間の喪の悲しみ」であると
述べている。そのためのこの地の環境は、あまりにも悪すぎる。
(それとも聞き慣れた音楽は、CDでは聴き取れない部分を、前もっ
て携行している先入観で補足しているだけなのかもしれない)

ロビーでの休憩後はラヴェル『ダフニスとクロエ』。ヴォカリーズ
のはいった全曲版。よく演奏される第2組曲は、この後半の第3部の
部分。こちらは、もともとこの時代を席巻したディアギレフのロ
シアバレエ団のために書かれた作品だが、解説の詳しい場面説明に、
それらの「物語」を追いかけることが、本当に「音楽」のためにい
いのかどうかと思っていた。もちろん、それらを知っておくことは
重要だと思うけれど、音楽は筋を追うものでもないだろう。

フルートのソロに酔いしれ、ホルンの音色に耳を傾け、合唱のシニ
フィエのないヴォーカリーズに揺り動かされるときに、デュサパン
のいうように「(音楽を聴く)直前の沈黙と(音楽を聴いた)直後
の思い出(記憶)とのあいだの時間のずれを同化」させることがで
きるのだろう。20世紀を開いたストラヴィンスキーの『春の祭典』
をはじめ、(この『ダフクロ』はこの『祭典』のぬけたシーズンに
とりあげられ初演された。たぶん)この時代には、舞踏のための音
楽がたくさんあるし、先のデュサパンのように、音楽にあとから振
付がつけられているものもある。バレエの舞台を参照項としながら
も、バレエとコンサートをわけておくのもひとつの手だてであろう。

さて、ひさしぶりの大フィルは、「大阪弁」をしゃべっていたのだ
ろうか。このことは、もうウん十年も前に書いた命題だが、おそら
くいまだに議論のまとになっているのであろうか。

このシーズンの定期ではさまざまな「シリーズ」がとりあげられ、
その掉尾に「フランスもの」がきたとのことらしい。このオーケス
トラの「音」がそれにマッチしていたのかどうかといったことはあ
まり重要とも思えないが、今回の指揮者がもたらしたに違いないよ
く組み立てられたプログラミングゆえだけではなく、地元で聴いた
このオーケストラは、他処(アウェー)で聴いた相変わらずの時代
がかったつくりこまれたようなときよりも、はるかに親しみのある
魅力的な音楽を奏でていた。
(2009年3月12日・13日 ザ・シンフォニーホール)

〈ごひゃっきろ〉

テーマ:現代音楽 - ジャンル:音楽

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